日本料理の危機に「地方から」挑む老舗料亭

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バンコク、アナンタラサイアムホテル。今年で18回目を迎える美食の祭典、ワールドグルメフェスティバルが行われ、世界各地から11人のシェフが集まった。

目玉はホテル内で行われるシェフのポップアップレストランだ。そして、7日間にわたって行われた計19回のゲストシェフイベントの中でも、いち早く”Sold out” の札が貼られたのが、石川県・金沢の料亭、銭屋のものだった。

タイでも人気の高い日本食。可処分所得の増加も相まって、本格的な寿司店もここ数年増えてきた。

今回のイベントでは、アナンタラサイアムホテル内の人気の日本食「Shintaro」が銭屋の会場となった。地元の食通たちで満席のテーブルの間に、銭屋の2代目、高木慎一朗が挨拶に立った。190cmの長身。しかし、「私が見た中で、一番背の高い日本人シェフです」と紹介したホテルスタッフは、おそらく「私が見た中で一番英語が流暢なシェフです」と付け加えるのを忘れていたに違いない。

マイクを持った高木は、「その土地に合わせた料理を作るのが日本料理。ここでしか食べられない料理を出します。日本料理には”出会い”という言葉があります。季節の始まりのものと終わりのものを一皿に盛り込むことで、季節の移ろいを感じてもらうものです」と自身の料理のスタイルをわかりやすく英語で説明した。


ディナーの前に行われた、デモンストレーションでは、巧みな英語と話術で世界各地から集まったメディアを引き込んだ

今年2月には農林水産省の日本食普及の親善大使にも選ばれ、海外の三ツ星店でコラボレーションディナーを行うなど、海外からのオファーが引きも切らない。しかし、高木にとって「料理人」というのは、決して憧れていた職業ではなく、むしろ、その逆だった。

古都・金沢で、父が一代で興した料亭の長男として生まれたが、料理好きの弟が店を継ぐものだとばかり思っていた。高木自身は、高校時代はロックスターに憧れ、バンド活動に明け暮れた。ミュージシャンになるのが夢だった。

外の世界に憧れて、16歳の時にニューヨークに1年間語学留学にも行った。映画「007」のジェームズ・ボンドのセリフを必死に覚えて口説いたブロンドのガールフレンドに、150本のバラの花束を贈ったこともあるロマンチストだ。毎日厨房にこもって過ごす料理人ではなく、世界を股にかけて活躍する未来を描いていた。

金沢に戻ってからも、料理屋を継ぎたくない一心で、東京へ。料理とは全く関係のない学部をと、日本大学の商学部に進学する。

そんな人生に異変が訪れたのは大学1年生の時。父が、急逝したのだ。弟はまだ高校生。高校を卒業してから調理師学校に入ることになっていたが、それを待つ時間はなかった。「自分が、継ぐしかない」。大学を卒業するとすぐさま京都の吉兆に2年間の修業に行き、1996年、26歳で銭屋を継いだ。

とにかく、最初のうちは店を守ることに無我夢中だった。そんな時期が過ぎ、「俺はこのまま厨房に閉じこもって終わるのか」そんな疑問を感じ始めた2009年、フランス料理の重鎮、アラン・デュカスが率いるフレンチレストラン「ベージュ東京」から、コラボレーションの話が舞い込む。

面白いじゃないか。せっかくやるなら、ありきたりの構成にはしたくなかった。ベージュ東京のヘッドシェフと、お互いのシグネチャーを交互に出すのではなく、二人で全ての皿を一緒に作ろう、と決めた。初めての外国人シェフとの仕事。苦労はしたが、自分にしかできない料理を作った、という充実感があった。

そして気づいた。好きだったローリング・ストーンズも、マイケル・ジャクソンも、当たり前のようにワールドツアーをしている。赤の広場で、言葉では通じ合えない、多くの人たちを熱狂させているライブ映像を見たことがあった。

言葉を超えたコミュニケーションができる、という意味で、音楽も料理も一緒ではないか。夢を諦めたと思ったけれど、料理でだって、自分のやりたかったことができるじゃないか。自分にしかできないやり方で、料理を作ろう。

それまでずっと、「自分が料理人をしていていいのか」という劣等感があった。なりたくてこの世界に入ったわけではなかったから、「この仕事が天職」と語る他の料理人が、眩しくて仕方なかった。その劣等感が、嘘のように消えて行くのを感じた。



次第に、世界各地からポップアップレストランやコラボレーションの誘いが舞い込むようになる。NY時代に鍛えた英語力が役にたった。いつか、世界で活躍するという夢は、料理人という形で叶えられることになったのだ。

同時に、世界を見ていく中で感じたのが、日本の閉鎖性だ。「『日本人にしか、日本料理の味はわかない』なんて言っていては、世界に置いていかれる」と高木は言う。

料理は客によって作られる。「おいしい」と言って食べてもらえて、初めて成り立つ、相手ありきのものだ。それをふまえて高木は、自分は、好きなものを作り表現するアーティストとは違うと話す。そして、だからこそ、しっかりとした富裕層のいる外国の方が美食に対する感覚が鋭く、成熟しており、また勉強もしていると言うのが、高木の考えだ。

同時に高木は、「日本人ブランドの崩壊」がすでに始まっていると指摘する。「日本人が作る日本料理がいい、なんて言うのは、すでに過去の話です」。その例として高木が引き合いに出したのが、NYの寿司店の事例だ。

高木がよく行くという、NYの人気寿司店「Shuko」。板前に日本人はいない。出しているのは、現地に合わせたフュージョンではなく、伝統的な江戸前寿司だ。それでも、サービス料や飲み物を合わせると一人4万円近くなる料金を、当たり前に支払う食事客。つまり、そこにはその金額を払うマーケットがあり、さらには、味と質が担保されれば、作る側は日本人でなくてもいい、という、「日本人ブランドの崩壊」が始まっているのだ。

客が訪れ、きちんとした料金が支払われることで、食文化は受け継がれ守られていく。

「本物の日本食は日本人しか作れない」というけれど、では日本人だけを相手にしたマーケットで、どれだけ生き残っていけるのか。「世界で日本食を残して行かなくてはならないのに、外国人にきちんとしつらいや器、料理の背景まで説明できる料理人が少ない」と、高木は危機感を覚えている。

だからこそ、本気で知りたい、という相手には、国籍を問わず、何も隠さずに全力で教える。今回のイベントでも、合間合間に地元の若手の調理スタッフを呼んでは、全員に味見をさせ「いつでも、味見したいと思ったら味見して欲しい」と呼びかけた。こうして、少しでも日本料理を浸透させたいと思っているのだ。

東京から直線距離でも約300km。金沢は、決して交通至便というわけではない。地方にいるデメリットは感じないのか。

「羽田から小松空港まで、わずか50分。成田空港から鎌倉に行くより近いですよ、むしろ、東京でレストランをやることの方がデメリットだと感じます」と高木は言う。

東京でレストランをやるデメリット、とはどういう意味か。東京は多くの観光客が来るところだ。料理に大して興味はなくても、一軒くらい名の通った日本料理屋に行っておくか、というような客もやって来る。

「そうではなく、自分はフランス料理の名店、トロワグロになりたいのだ」と、高木は言う。フランス南東部、リヨンから更に1時間離れた、ロアンヌ。人里離れた場所に、50年間ミシュラン三ツ星を取り続けているレストラン、トロワグロはある。人々は、この店で食事をするためだけにロアンヌを訪れる。

それと同じように、この金沢の地で、心から料理を愛する人のためだけに料理を作りたい。

それは、少しずつ形になりつつある。この銭屋のために飛行機に乗ってやって来る。そんな客が、増え始めているのだ。

ここでしか伝えられないものを伝えて行く存在になりたい。金沢に根を下ろした料理を伝えていこうとする一方で、高木は「故郷石川の加賀料理が、形を変えて世界で楽しまれるようになったら面白い」と意気込む。

日本料理や文化の継承への危機感もあり、銭屋では海外からの研修生を積極的に受け入れている。そして高木は、その研修生がそれぞれの母国に帰った後、どんな料理を作って行くかにも興味がある。

「そこに自分の名前なんて出なくていいんです。だけれども、世界のどこかで、治部煮はね、って語るシェフがいて、それは実は自分が伝えたものなんだ、って、なんだか楽しいじゃないですか」

その国に適応することで、元々の治部煮とは違うものになってしまってもいいのか、と聞くと、「治部煮にチョコレート入れました、だっていいんです。それがその場所で残っていくのなら。どんどんやって欲しいですね」。高木はそう言って、愉快そうに笑う。残っていく、ということは、料理の「魂」が継承されていくということ。高木はそう考えているのだ。

人生の転機となった、2009年のアラン・デュカスとのコラボレーションで、デュカスに言われた言葉がある。

「どこから来たのか分からなければ、どこに向かうのかも分からない」

自分はどこから来たのか。生まれ育った金沢、父から受け継いだ銭屋が、自分の心の中心にある。ここから自分が作る料理が、未来を生き抜く日本料理につながっていって欲しい。京都からでも、東京からでもない場所から、日本料理を変えていく。

人類は進化と適応とを繰り返して生き抜いて来た。変わらないものは、残らない。

「本物っていうのは、誰かがそういうから本物なんじゃないんです。残っていくものが、結果として本物になるんです」