『写真:AFLO』

 銀座4丁目の裏通りに割烹料理店の「いまむら」はある。『鬼平犯科帳』『剣客商売』など時代小説で有名な池波正太郎にかわいがられた料理人、今村英雄が1988年に奥さんと2人で始めた店である。カウンター10席だけの小さな店だ。

 池波は2人の仲人でもあり、数多く残した食のエッセイには今村英雄とその店がよく登場する。店の名づけ親は池波であり、看板や箸袋に使われている「御料理 いまむら」の字は池波が揮毫(きごう)したものである。

 池波は今村の料理を好み、人生の最後に箸をつけたのは、今村が病室に届けた料理だったといわれる。

 今村英太郎さん(40)は今村の一人息子である。父親が亡くなって、30歳で「いまむら」を継ぎ、母親と2人で店を切り盛りしている。

 今村さんの名づけ親も池波であり、自身の「正太郎」と父親の「英雄」から英太郎とした。父親は若いうちに京都の料理屋へ修業に行かせることを考えていたが、本人は大学へ進んだ。

「料理の道に進むかどうかは微妙でした。大学進学を考えたとき、店のことはどこかで意識していたので、大学へ行って4年間自由にしたいという気持ちもあったし、もし進学して失敗しても店があるという気持ちもありました。

 大学卒業時は就職氷河期で、若い衆を雇ってくれる店がなかったので、東京プリンスホテルの調理部に入りました。ホテルを選んだのは、いろいろな人と仕事をしたかったからです。

 そのころは、いずれ店に入るという考えがあって、そうなると両親と僕だけの狭い世界になってしまいますので……」

 25歳のとき「いまむら」に入り、父親の下で本格的に板前の修業を始めた。3年ほどたったころに父親が倒れ、2008年に63歳の若さでこの世を去った。こうして、今村さんは30歳で最初の転機を迎えた。

「親父が死んで店をたたむという選択肢はなく、継ぐしかないと思いました。料理を始めてからわずか7年ほどで、銀座で割烹料理店の大将ですよ。そのときは本当に慌てましたね。

 でも、まだよくわかっていなかったぶん、なんとかできたのかもしれません。修業不足なので、とにかく親父が出していた料理の味や順番、毎日の料理の組み合わせなどを完全に再現することで、今までのお客様に変わったと思われないようにしました。

 親父の存在が大きかったので、親父のやり方を今も引きずっている感じがします」

 父親が店を始めた1988年はバブル景気のさなかだった。当時としてはコース1万円という格安の料金設定をした。池波正太郎の影響もあり、出版、新聞、映画、テレビなどの関係者、池波ファンの客が多く、店は18時から22時までの営業時間内に2回転以上もした。

 またマスコミに店が取り上げられることも多かった。しかし、有名になっても料金設定を変えることはなかった。そのため、バブル崩壊後の経済低迷期を乗り切ることができた。

「親父が病気になってから店をまかされて、よくお客さんに聞かれたのが『料理が好きなのか?』。実際のところ、あまり好きではなかったので答えようがなかったですね。

 でも仕事ですから認めてもらいたいし、親父以上の仕事をしたいわけです。亡くなる少し前に親父ならどう答えるのかと聞いたことがあります。

 すると『板前をやるのは料理が好きか、嫌いかっていう問題じゃない。ただ俺は、仕事は好きだけどな』。そう言いました。同じだと思いましたね」

「いまむら」は2018年、創業30周年を迎える。父親の後を継いでからは10年だ。今村さんには、父親からもっと学んでおけばよかったということがたくさんある。料理もさることながら、いま学びたいのは店の経営の深いところや、客をどのように呼ぶかだ。

 景気のせいで銀座の夜も寂しくなった。魚の仕入れ値の高騰や客の嗜好の変化もあり、閉店する割烹料理店が増えた。父親ならどのように対応したのだろうか?

「これからは親父の作った流れにこだわらず、自分のスタイルでお客様に楽しんでもらえる料理店をやりたいと思っています。僕は40歳、女将の母は70歳になりました。 いつまでも同じようには続けられません。30周年を機に店をどうするのか、この数カ月で結論を出そうと考えています」

 時代は変わっていく。銀座や会席料理の流れにこだわらない、より大衆的で飲みながら楽しめる一流の料理。割烹料理にこだわる必要もないかもしれない。ここ一番の転機を迎えて、今村さんはどのような結論を出すのか?

「おじさん」と呼んだ池波正太郎も、客に親しまれた父親も見守っているに違いない。

(週刊FLASH 2017年10月17日、24日合併号)