2003年からジュビロ磐田で定位置を確保した前田遼一。藤田俊哉、名波浩ら錚々たる選手たちがチームメイトだった【写真:Getty Images】

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もともとは技術に長けたMF。プロ入り当初はポジションが定まらず

 1979年生まれ組が「黄金世代」と称される一方で、「谷間の世代」と呼ばれていた1981年世代。ワールドユース(現U-20W杯)や五輪ではグループステージ敗退を経験したが、2010年の南アフリカW杯では決勝トーナメントに進出した日本代表チームで軸となる世代となり、今なおJクラブで主力を担う選手たちもいる。この世代の中心的選手であり、2度のJ1得点王に輝いた前田遼一は自身のキャリアについてどう思っているのだろうか。(文:元川悦子)

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 99年ナイジェリア大会に続き、U-20日本代表の躍進が期待された2001年アルゼンチン大会。オーストラリア、アンゴラ、チェコと同組に入った日本は初戦、第2戦を立て続けに落とし、早々とグループリーグ敗退の憂き目に遭った。

 3戦目のチェコ戦ではGKペトロ・チェフ(アーセナル)の守るゴールに3得点を叩き込み、潜在能力の高さを示したが、全ては焼け石に水。攻撃陣の中核だった前田遼一は1トップ、あるいは2列目の一角で全試合に先発出場したが、ゴールを1つも奪えないまま帰国の途に着くことになった……。

 16年前の前田は、東京・暁星高校からジュビロ磐田入りして2年目の若手だった。中山雅史(沼津、解説者)、藤田俊哉(リーズ強化担当)、名波浩(磐田監督)ら日本屈指のタレントを揃える磐田は2002年にJリーグ完全制覇(当時は2ステージ制)を達成するなど、まさに黄金期の真っ只中。10代の若手にそうそう出番が巡ってこないのも当然のことだった。

 彼はもともとドリブルを得意とするMFであり、プロ入り後はトップ下やFWなどポジションが固まらなかったこともあって出場機会を増やせず、定位置を確保したのは2003年から。すでに高原が去り、中山が恥骨結合炎で欠場したシーズンである。

「ジュビロの新人時代にいろんなことを経験できたのはよかったですね。FW以外をやらせてもらったことも、後々に生きたかなと感じます。

 そして一番大きかったのは、やっぱり中山さん、タカさんの2人を近くで見れたこと。彼らはホントに間違いなく日本を代表するストライカーですし、長く中盤でやってきた自分には『確固たるFW像』ってものがなかった。

 そういう中で一番最初に見たのが2人だったんで、すごく影響を受けました。中山さんはボールのないところの動き出し、タカさんはシュートのバリエーション。足元が特にうまかったんで、そういうプレーが非常に参考になりました」と前田は述懐する。


2001年にはA代表候補に選出されるも…デビューは2007年にずれ込む

 彼の非凡なところは、偉大な先輩2人から点を取る術を盗んだこと。「先輩はみんな面倒見はよかったですけど、いろいろアドバイスをしてくれたのは、ヒデさん(鈴木秀人=磐田コーチ)とかDFの人。FWの人が動きを教えてくれるのはあんまりなかった」と本人も言うように、中山も高原も点取屋としての秘訣をわざわざ教えてくれるはずがないから、自分から貪欲に習得するしかない。そういう環境に置かれたことで、若かりし日の前田は飛躍のチャンスを得た。

 ただ、高い壁があった分、表舞台に躍り出るのは遅れた。フィリップ・トルシエ監督が率いていた2001年には20歳にして日本代表候補に選ばれたものの、初キャップはイビチャ・オシム監督時代の2007年10月のエジプト戦(大阪)までずれ込んだ。

 老将の急病によって後を引き継いだ岡田武史監督(FC今治代表)からも高さ、足元の技術、守備意識を認められ、しばしば招集を受けた。2009年9月のオランダ遠征の際も、当時のエース・中村俊輔(磐田)が「前田ちゃんはFWの中で一番体張れる。それでうまいし、走れる」と絶賛したが、2010年南アフリカワールドカップは予備登録にとどまった。

 2009・2010年と2年連続Jリーグ得点王に輝き、岡田監督の後に代表指揮官に就任したアルベルト・ザッケローニ監督体制では不動の1トップに定着するも、2011シーズン末に踏み出そうとしたトライしたイングランド・ウェストハム移籍は叶わなかった。

「海外にも行こうとしたけど、気づくのが遅かった」

 さらに、13年のコンフェデレーションズカップ(ブラジル)を境に代表から遠ざかる。大迫勇也(ケルン)、柿谷曜一朗(C大阪)という2人の若手FWに押し出される形で、2014年ブラジルワールドカップも落選。日の当たる舞台には立てなかった。

「ザックさんの代表の時はそれまでとは一番気持ちが違ってたかな。『もう最後』みたいなイメージだったから。それまでは正直、代表にそこまで執着してなかった。ちょっとケガで痛かったりしたら辞退したりとか、貪欲じゃなかったかなって感覚があります。南アも大きかったかもしれない。僕らの世代がいっぱい入っていたしね。

 でも、気づくのが遅いっすけどね。海外にも行こうとしたけど、やっぱりそれも気づくのが遅かった。今、ダイ(松井大輔=オドラオポーレ)が36歳にして欧州に再チャレンジしてますけど、すごいうらやましいなって気持ちはあります。ダイらしいっちゃ、ダイらしいってのはありますけどね」と前田はあと一歩で夢舞台をつかめそうだったザックジャパン時代を振り返る。

 確かに4年前まで彼は輝いていた。2014年ブラジルワールドカップアジア最終予選では全試合に先発出場。2012年6月のオマーン戦、ヨルダン戦、9月のイラク戦といずれも埼玉スタジアムのゲームで得点を奪っている。

 とりわけイラク戦は、右サイドバックでスタメン出場した駒野友一(福岡)のスローインを岡崎慎司(レスター)が受け、その折り返しを前田が決めるという「81年組コンビ」(駒野も1981年生まれ)が演出した1点だった。

「あの時が僕らのピークだった? そうかもしれないですよね。確かに30歳前後で。あの後、自分が外されたのは悔しかったけど、チームで結果が出てなかったですし、呼ばれた人は結果を出してたし、しょうがないかなと。それが実力なんだなと感じたし、巡りあわせもありますよね。

 あの頃、一緒に攻撃陣を担っていた圭佑(本田=パチューカ)とかオカとか真司(香川=ドルトムント)は今でもやってるからすごいと思います。自分自身ももちろん代表に戻りたい思いはあるけど、やっぱりチームで結果を出さないといけないと感じます」と前田は神妙な面持ちで語っていた。

「『谷間』という印象はない。自分らしくやっていきたい」

 その後、J2降格を余儀なくされた磐田で2014年の1シーズンを過ごし、高校時代を過ごした東京のクラブであるFC東京へ移籍。1年目は9点、2年目は6点を挙げている。3年目の今季は大久保嘉人、永井謙佑、ピーター・ウタカの加入で出場機会が大幅に減ったものの「すごいメンバーとポジション争いできているのは幸せなこと」とポジティブに捉えている。

 そうやって前向きにコツコツと努力できるのが、谷間の世代のエースストライカーの長所である。「自分たちは『谷間』という印象はない。自分らしくやっていきたい」と話していた男の矜持は今もこの先も変わることはないはずだ。

「僕らは30代後半になりますけど、上の世代が今もやってるじゃないですか。満男(小笠原=鹿島)さん、ヤット(遠藤保仁=G大阪)さんとか第一線でやってるわけじゃないですか。中澤佑二さんはもっと上だし。

 そういう人たちをすぐそばで見れてるのは大きいのかなと。だから自分たちが上に行った感は全然ないです。もしかしたら、それが谷間の世代のメリットかも。タカさんもそうですけど、ホントにいいお手本がすぐ近くにいる。それを忘れずに、僕はこれからも上を目指してやっていきたいです」

 以前は「寡黙すぎる点取屋」と言われた前田遼一。だが、36歳を目前にして、いい意味で自己表現できるようになってきた。そういう意味でも遅咲きの男がサッカー選手として華々しい晩年を過ごすことを切に祈りたい。

(取材・文:元川悦子)

text by 元川悦子