結婚したら、寿退社♡

一昔前まで、それは女性の人生における最初の小さなゴールだった。

家庭に入り、料理の腕を磨き、夫の帰りを待つ。

だが、2017年の東京で「専業主婦」は、本当に憧れるべき存在だろうか?

志穂は結婚後、夫や子供の世話だけで終わる毎日に、自分の人生を生きていないという不安にかられていた。

自立のため復職し、夫との仲も修復しかけたように見えたが、思わぬライバルもあらわれた。

そんな中、職場の社長からフルタイム勤務で働かないかと持ちかけられる。




苦渋の決断。


「そっか。残念だけど、やっぱりご家族が大事だもんね。大丈夫だよ。」

志穂の勤務先であるベンチャー企業のオフィスには、まだ社長室というものがない。

社員と机を並べて座っている社長をつかまえ、意を決して「フルタイムでは働けない」と伝えたはいいものの、3秒後には後悔している自分に気がつく。

本当にこれで良かったのか、と。

やりがいのある職場でフルタイムで働けるというチャンスは、喉から手が出るほど掴みたかった。

だが、2歳になったばかりのひなと週5日も離れ、今以上の負担を強いるのも気が引ける。

そんな心配に加え、フルタイム復帰に対しての康介の反応も良くなかった。

ここは自分が折れて今まで通りのペースでの仕事にとどめていた方が賢明だと感じ、決断を下したのだから仕方がない。

仕方がないのだが、いつまでも納得のいかない想いが胸の中に渦巻いてしまう。

志穂とは逆に、社長はもう既に横を向いて別の社員と何やら新たな仕事の相談をしている。

すごすごと重い足取りで自分の机に戻り、志穂は大きなため息をひとつついた。


家族の為の決断をした志穂への、容赦ない攻撃


義母登場


「おめでとうございます!」

愛知県から上京している義母の還暦のお祝いということで、『グリル うかい 丸の内』の個室には、康介の兄弟とその家族も集まり大変賑やかだ。




義母、義兄家族4人、義弟夫婦。康介の家族は、義母以外、みな東京に出てきている。義父は昨年若くして亡くなった。

無口な男達に代わってその場の空気を作るのは、主役の義母と義兄の嫁、義弟の嫁といった女達である。

義姉は8歳と6歳の兄弟を育てており、現在は専業主婦だ。若い義弟夫婦には、まだ子供がいない。話題は専ら、その場の子供達のことだ。

だが志穂はその場の会話には入らず、動きまわりたくて仕方がないひなの後ばかり追いかけている。

実母と違い、義母は自分がご飯を食べる間ひなを見てくれるということはないので、先ほどから志穂の皿は手つかずのままだ。

「志穂ちゃんも座ったら?」

ふと、義母に声をかけられる。還暦のお祝いだからと、赤いカーディガンを着こなす義母は、還暦とは思えないほどに若々しい。言われた通りに座ってみたものの、ひなが大人しくしているはずもない。見かねた康介がひなを個室の外に連れ出してくれた。

「康介くん、イクメンね。」

義姉がにこやかに笑いながら言った。自分はもう30分近くテーブルについてない。これしきのことでイクメン呼ばわりされるなんて、男っていいなぁ、と疲れた頭で考えてしまった。

じんわりと汗すらかいて疲労している志穂に、義母が続ける。

「ねぇ、志穂ちゃんひなちゃんを幼児教室に預けている間お仕事してるんだって?」

志穂ははい、とだけ頷く。もう、目の前の料理の味はわからない。

「康介くんしっかりしたところにお勤めだもん。志穂ちゃんが働かなくたって良い気もしちゃうけどね。」

義母の直接的な質問をフォローするかのように、義姉が言った。志穂は、力なく笑うことしかできず、目の前の肉を咀嚼する。だが、義母は容赦なく畳み掛けた。

「私の時からは考えられない。今でも近所のひなちゃんくらいの子を育てているお母さんで、働いている人なんて全然いないわよ。」

志穂は、朝からひどいPMSと頭痛に悩まされていた。薬を飲んでやっと出てきたものの、体調不良を押して動き回るひなの面倒を見ていたからか、無意識に余計な一言を口走ってしまった。

「あぁ、地方と東京じゃ少し様子が違うかもしれませんよね。」

場が凍りついたと同時に、ひなと康介が部屋に帰ってきた。

義姉が明るくその場をとりなし会はなんとかお開きになったが、志穂の気分は重苦しいままだった。


さらに志穂を襲う悲劇とは


この幸福は、だれのおかげ?


帰宅した後も、志穂は消化できない気分を抱えたままソファに倒れ込んでしまった。

「私ったら、どうしてあんな余計なことを言っちゃったんだろう…。」

自分はまだ、ああした時に感情をコントロールし笑顔を保つ術を知らない。子供のためにも、義母に可愛がられていた方が得だというのは分かっている。それなのに自分は、何を口走ったのだろうか。

志穂が放心状態でいると、夫が声をかけてきた。

「俺、先に風呂入る。ひなも入れてやるよ。」

世の中の夫の多くがそうであるらしいのだが、「やってやる」という言い方がカンに障ってしまう。

だが、その違いを議論する元気もなく、子供を見てくれるのは素直にありがたい。よろしくね、と言って自分のスマホを眺めようとした時だ。

軽快なスマホの着信音が何度か鳴った。夫のスマホだ。

前回は勝手にLINEを見てしまい嫌なものを発見したので、今回は見ないようにしなければ…と思いながらも夫のスマホに手が伸びる。

LINEに写真が送られてきている。送信元は、あの「杉ちゃん」だった。

夫の康介と、ショートカットの切れ長の目の美人の2ショット。これが、杉ちゃんなのか。

何人かとのグループショットもある。2人だけでないのに救われたが、これは会社の飲み会の写真だろうか。




間髪入れずに、”昨日は楽しかったね!”とのテキストも送られてきた。

昨日、昨日…。志穂は疲れた脳をフル回転させて昨夜の記憶を手繰り寄せる。

康介は、昨晩はたしか接待で遅くなると言っていたはずだ。大事なクライアントで、2軒目も付き合わなければいけないと連絡が来た後、終電後にタクシーで帰宅した。

怒りを通り越して、ただただ悲しみが志穂の心を支配する。

浴室からは、楽しそうに笑うひなと康介の声が聞こえた。水がバシャバシャとはねる音がリビングまで響いてくる。

幸せな、家庭の音だ。

だがこの幸せのために、自分はいくつかのことを犠牲にしているのかもしれない。

志穂は、そんな風にまで思うようになっていた。

夫は接待だと言えば、仲間と好きに飲み会にだって行ける。罪悪感もなく。

でもそれは、自分がひなをしっかりと家で世話して、夜はどこにも出かけたりせず面倒を見ているからではないか。フルタイム勤務を諦め、週3のパートにとどめているからではないか。

若い頃の自分は、決して彼氏の携帯をこっそりチェックしたりする女ではなかった。いつも堂々として、相手がもし悪さをしようものなら容赦なく次の男と切り替えてきた。

だが、今の自分は、なんて不自由なのだろうか。

涙が止まらず、志穂は気がついたらお財布とスマホだけをもって玄関のドアを開けていた。

▶NEXT:10月12日 木曜更新予定
志穂は家を出てしまうのか?