『人生タクシー』は“映画”ではない? 特異な表現を生んだ、イラン社会の現実

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 2016年にこの世を去った、イランの巨匠監督、アッバス・キアロスタミ。彼の下で映画づくりを学んだ、ジャファル・パナヒ監督もまた、カンヌ、ヴェネツィア、ベルリンの三大映画祭での受賞をはじめ、世界できわめて高い評価を受けている。

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 本作『人生タクシー』は、ベルリン国際映画祭コンペティション部門の最高賞である「金熊賞」を獲得し、パナヒ監督の巨匠としての地位を、さらに盤石のものにしたといえる作品だ。ここでは、そんな一人の映画監督の身に起きた悲劇を考えながら、本作の特異な表現の意味を考えていきたい。

■映画を撮ることを禁止された監督

 パナヒ監督といえば、2010年にイラン政府から、作品が“反体制的”だという理由などによって逮捕されたことでも知られている。当時彼は、カンヌ国際映画祭へ審査員として出席するべく、フランスへ出発する矢先に拘束された。そのことで、ジュリエット・ビノシュやスティーヴン・スピルバーグ監督など、多くの世界的な映画人たちがイラン政府へ抗議、または嘆願の活動をすることになった。

 その努力や、パナヒ監督本人のハンガー・ストライキによって保釈は実現したものの、そこでなんと当局から「20年間の映画製作の禁止」を命じられてしまう。同時に、脚本を書くことも、出国することも禁止されてしまったのだ。映画監督としてここまで世界に評価され、新作を待ち望まれながら、こんなにもひどい扱いを受けた人物はまれだ。映画に関わる者、映画を愛する者の多くが、怒りに打ち震えるような事態である。

■「映画ではない」から大丈夫

 だがパナヒ監督は保釈中も、謹慎していた自宅の中で撮影を行っていた。その内容は、監督自身が映画の「構想」を語るといったものだ。だからこれは、禁止されているような「映画」ではない、ということなのである。この作品は『これは映画ではない』というタイトルで、各国で上映され人気を博すことになった。続く『閉ざされたカーテン』も、室内で撮られた内省的な内容で、これら政府の弾圧下で製作された作品はカンヌ国際映画祭やベルリン国際映画祭で賞を獲得している。

 『人生タクシー』は、タクシー運転手になったパナヒ監督と、タクシーに乗り込んでくる客たちとの対話などを、車内のカメラで撮った作品である。車内での長回し撮影といえば、とくにキアロスタミ監督の得意とした手法を思い出すが、この作品は、たまたまカメラに映っただけのものであり、「映画」ではないから、逮捕されることはないという理屈だ。ともあれ、カメラは部屋の外へ出て、ついにおおっぴらに街の姿を映し出すことができたのである。

■乗客たちが示すのはイラン社会の現状

 テヘランの街を走る、パナヒ監督が運転するタクシーには、次々に個性豊かなお客が乗ってくる。金魚の入った鉢を抱えた年配の女性、裕福な幼馴染、交通事故に遭った男と、泣き叫ぶ妻…。これら乗客たちを通して、イラン社会の現実や問題が明らかになってくる。

 お客の一人である、海賊版レンタルヴィデオ業者と、映画監督志望の大学生のやり取りは興味深い。イランでは、国外の映画を自由に観ることができる環境にないらしく、映画の勉強をしている学生は、海賊版を手配する業者にリクエストし、ソフトを配達してもらうことで、やっと作品を鑑賞できるらしいのだ。多様な映画を観ることが出来ずに映画監督になれるかというと、現実的には難しいだろう。イランの国内に生き続ける人たちの一部は、政府のルールを破ることなしには、夢を実現させる努力をすることも許されないのである。政府の弾圧に苦しめられているのは、急進的な作品を作り続けているパナヒ監督だけではないのだ。

 また別の場面では、海賊版CDを売る男も登場する。このような違法な商売人が存在するのは、そもそも政府が国外の文化を締め出すような政策をとっているからだともいえる。本作では、他にも犯罪に関わる人物が何人も現れるが、彼らもまた、イラン社会の実情を示す役割を果たしているように見える。

■「現実を撮ってはならない」

 監督の過去作、『オフサイド・ガールズ』では、サッカーが大好きな女の子たちが、苦心してスタジアムで試合を観戦しようと潜入を試みるという物語が描かれていた。サッカーが盛んなイランだが、女性がスタジアムの中に入って観戦することは法律違反だったのだ。

 パナヒ監督の作品は、生活者の目線から描かれる、イランの驚くべき社会状況を、私たち観客に教えてくれる。だが、そのほとんどの作品は、じつはイラン国内では、少なくとも正規のルートでは見ることができない。イランの政治体制下では、自国の政策や法律を批判的に描くだけで、当局から睨まれてしまう。

 本作で最も印象的な同乗者は、監督の姪として登場する、生意気盛りの可愛らしい小さな少女だろう。彼女は学校の課題で映画を撮ることになっていて、パナヒ監督とのやり取りのなかで、学校から提示された「上映可能な映画の条件」を、一つずつ挙げていく。「女性はスカーフを被ること」、「ネクタイをしている(西洋的な服装の)人を善人として描いてはならないこと」、「善人はイスラム教の聖人の名前にすること」、「俗悪なリアリズムを避けること」……これは、イラン映画に対する不当な検閲を意味するものでもある。

 「俗悪なリアリズムを避ける」とは、イラン社会の負の側面を記録し吹聴するなということである。姪っ子は、道端で金銭を拾いそのままネコババする少年の姿をたまたま撮影してしまう。これがつまり、「俗悪なリアリズム」と呼ばれるもので、学校で上映できない部分であろう。彼女は、「先生は現実を撮りなさいと言っておいて、本当の現実や暗くてイヤな現実は見せちゃダメって言う。私には違いが全然分からない」と困惑する。学校の意図する先にあるものは、保守的思想による「体制の維持と強化」であろう。このような条件に沿った、権力にとって都合の良い作品は、現実を無視した「政治的ファンタジー」に過ぎなくなってしまうはずだ。

■「映画」に捧げられた一輪のバラ

 皮肉なのは、パナヒ監督の撮るような作品を見せたくないからといって、政府が彼を弾圧すればするほど、世界の観客はイラン政府への不信感を強め、イラン社会の閉鎖性を知ってしまうという事実である。そして、弾圧によって縛られた映像は、より権力の横暴を感じさせ、社会批判の鋭さを増していくのである。国家の評判を貶めているのは、パナヒ監督の作る作品ではなく、国家自身なのだ。

 乗客の一人は、車内に一輪のバラを残して去っていく。このバラが意味するのは、多くの映画人への感謝であり、また映画という表現そのものへの感謝であろう。本作は「映画ではない」ということになっているが、その実、映画への深い愛情に満ちている。どんな権力が、どのような方法で弾圧を加えようとも、その愛だけは絶対に奪うことはできないはずだ。(小野寺系)