再稼働に動き出した柏崎刈羽原発(東京電力ホールディングスHP)

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 柏崎刈羽原発が再稼働へ向け本格的に動き出した。原子力規制委員会が、東京電力が示した安全対策が新基準に適合していると、事実上合格としたのだ。これまでも高浜、伊方、川内と再稼働が進められてきたが、柏崎刈羽原発は福島の原発事故を起こした東京電力の原発だ。そして福島第一原発と同じタイプの原発でもある。原子力規制委員会の田中俊一委員長は7月に「福島第一の廃炉を主体的に取り組めない事業者に再稼働の資格はない」と福島第一原発の事故を起こし、いまだ収束の見通しを立てられない東京電力を批判していたが、一転「適合」とする方針を示していた。

 原発事故から6年、まるで事故などなかったかのように再稼働を押し進める安倍政権。そんな原発政策への怒りが込められた小説をご存知だろうか。『蜜蜂と遠雷』(幻冬舎)が直木賞と本屋大賞をダブル受賞した恩田陸の『錆びた太陽』(朝日新聞出版)だ。

 以前、本サイトでも取り上げた【http://lite-ra.com/2017/04/post-3114.html】恩田の連作短編集『失われた地図』(KADOKAWA)は、怪奇アクション小説を通して「日本におけるナショナリズムの高まり、それにともなって湧き出た戦争の機運」に対して批判的な考えを表明した作品だった。それに続く『錆びた太陽』もまた、エンタテイメント小説でありながら社会的なトピックを扱った作品となっている。『錆びた太陽』ではパロディネタ満載のSFコメディ小説を通して、「原発事故と国民を見捨てた政府」に対する激しい怒りが書き込まれている。

 国際ピアノコンクールを舞台にした青春群像劇の『蜜蜂と遠雷』とは一転、二作連続で「右傾化し、弱者を切り捨てていく社会」を風刺した小説を出版する恩田陸。その真意はどこにあるのだろうか。

『錆びた太陽』は近未来の日本を描く。この世界では21世紀半ば、原発にテロが押し入り爆破するという大事件が起きている。それにより近隣住民3万人が急性放射線障害で死亡し、日本の国土の2割が立入制限区域になってしまった。この大事故をきっかけにようやくすべての原発が止まったため、皮肉を込めて「最後の事故」と呼ばれている。

 小説の舞台となるのは、北関東エリアの立入制限区域。そこでは高度に発達して人間との会話も自然に行うことのできる人型ロボットが人間に代わって復興のための作業や調査をしている。北関東エリアの立入制限区域内では放射能のせいで奇形化した魑魅魍魎が跋扈。人間は特別な呼吸装置なくしては入ることもできない荒れ果てた土地として描かれている。

 そして物語が終盤に向かうと、政府はその場所に国民には秘密で、海外で出た使用済み核燃料の保管場を建設しようと計画していることが明るみになる。使用済み核燃料と引き換えに莫大な金をもらうためだ。いつの日か復興した北関東エリアに帰る日を夢見て、日々頑張っている技術者や住民もいるのだが、そんなものは無視。公にすれば大きな議論が巻き起こること必至なだけに、政府はすべての情報を隠ぺいして計画を進めようとする。

●東海村の臨界事故を受けて、恩田陸は『錆びた太陽』を書く

 主人公たちは、この計画を阻止し、政府が秘密裏に進めるこの計画を暴露しようとするのだが、そのクライマックスに向けた盛り上がりのなかでこんなセリフが出てくる。

〈「今に始まったことではないが、どうも日本の政府や政治家には、今あるものでやりくりしようという頭がないようだ。子供が独立して家を出ていったら、小さい家に住み替えるとか、家計の規模を縮小しようと考えるのが普通だが、とにかく彼らは長いスパンで人生計画を考える気がさらさらない。使う人間もいないのに家を増築しようとする。彼らは上昇とか成長とかいう呪縛から逃れられない。とにかく、今目の前にカネが欲しい。今すぐ新しい家が欲しい。それだけだ。なんのためにカネが必要なのか、なんのための家なのか、決して考えない」〉

 福島での事故が収束のメドすらたっていないなか、次々と原発を再稼働させようとし、さらには海外への原発技術の輸出まで企てる現実の世界の安倍政権にもあてはまる言葉だ。また、前述のセリフの後には、こんな言葉も出てくる。

〈「さっきも話したように、彼らには人生計画がない。とにかく、今目の前にカネが欲しいのだ。今生きている者が大事なのだ。自分が使うためにも、選挙区にばらまくためにも。ここ百年ばかり、科学者や技術者、住民たちが、自分たちが生きているうちにはできなくとも、それでもいつか再び故郷を取り戻したいと、地を這うような努力をしていることなど、彼らには目に入らない」〉

 復興のために日夜働いている人たちや、被害に遭った住民のことなど一顧だにせず、あろうことか「(地震が起きたのが)東北でよかった」なる発言まで口にした今村雅弘前復興相を筆頭に、この「いつか再び故郷を取り戻したいと、地を這うような努力をしていることなど、彼らには目に入らない」というセリフもまた、現実の世界の政権与党にもそのまま当てはまるセリフだろう。

 小説内のセリフでありながら、これらの言葉には原発政策に対する恩田陸の憤怒の思いが見える。実は、その怒りにはバックボーンがあった。『錆びた太陽』は3.11後の状況を見て生まれた小説であり、東海村の臨界事故を受けての物語でもある。「AERA」(朝日新聞出版)17年3月27日号に掲載された取材記事にはこのように記されていた。

〈この小説を書く上で、原体験となった出来事がある。1999年9月30日、テレビ画面に突如、ニュース速報が入った。600人以上が被曝した、茨城県東海村の臨界事故の一報だ。高校時代を茨城で過ごし、事故があった核燃料加工施設は高校時代の同級生の親も多く勤める身近な存在だった。原子力マネーで潤う豊かな村が、一夜にして悲劇の舞台となる。強烈な違和感が忘れられない〉

●金と利権のために原発再稼働を進める政権へ向けた恩田陸の怒り

 青春時代を過ごした茨城県で起きた東海村の事故。この国はそこから得た教訓をまったく活かすことができず、さらに大きな事故を起こしてしまった。「一冊の本」(朝日新聞出版)17年4月号に掲載されたエッセイでは、東海村の事故と福島の事故をこのように綴っている。

〈「青い光を見た」という二人が急性放射線障害で亡くなった。その実態は凄まじい。当時の医療関係者が証言しているドキュメンタリーを観たことがあるが、染色体が破壊されたため細胞が再生されず、臓器や筋肉の入った人間という「袋」が維持できない状態で、最後のほうは、皮膚を覆って「袋」を保つのが精一杯だったという。手を尽くしたものの治療方法がなくなり、1人は事故から83日目、もう1人は211日目に多臓器不全で亡くなった。「人命軽視もはなはだしい」と治療に携わった医師が怒りを露にしていたことを思い出す。
 あの頃と変わっていなかった。進歩していなかった。あの事故は今映像を観ているこの事故に繋がっていた。きっとまた、この次の事故も起きるだろう。ニュースを見るたび、そんなデジャ・ビュを覚えるのである。〉

 この国の為政者は同じ事故を繰り返すだけでは気が済まず、必要性のない原発をいまだに使い続けようとしている。そこに国民の姿はない。あるのは、金と利権だけだ。

〈しかし、この国の偉い人たちは、どうしても原発を使い続けたいらしい。
 そもそも、増え続ける電力需要のために多くの原発の建設が押し進められたわけだし、電気が必要だから原発も必要なのだという話だったはずである。しかし、節電技術の向上で、原発が一基も稼働していなくとも、国内の電力が賄えることが証明されてしまった。
(中略)
 当初の目的を見失い、原発を稼働させること自体が目的化してしまっているのだ。〉(前出「一冊の本」)

●現実が絶望的だからこそ、恩田陸はコメディ小説を書いた

 あらすじや作者本人の発言を聞くと、この『錆びた太陽』という小説はなにか堅苦しい物語のように思えてしまうかもしれないが、実際に読むと、『太陽にほえろ!』や『トラック野郎』など昭和のアクション系ドラマや映画からオマージュされた、ややスベリ気味(失礼!)なギャグが満載のリーダビリティの高い小説で、人間味溢れるゾンビが出てくるシュールな笑いに満ちたシーンなどは、映画『アイアムアヒーロー』なども連想させる。だが、そのようなコメディ的作風が選ばれたのは、彼女がそれだけ現状に怒りと絶望を抱えているからに他ならない。

〈近年、我々の生きるこの世界はあまりにも矛盾と不条理に満ちている。眩暈を通り越して、しばしば笑ってしまうほどだ。いや、これはもう笑うしかないという心境になってきている。だから、今我々に必要なものはコメディだ。悲劇は視点を変えればもはや喜劇でしかない。私が時々むしょうにコメディが書きたくなるのは、たぶん心のどこかで深い絶望を感じているせいなのだろう。
『錆びた太陽』は、そんな何年かに一度巡ってくる「絶望の季節」に降ってきた話である。〉(前出「一冊の本」)

 直木賞受賞後の会見で「今後どんな小説を書いていきたいとお考えになってらっしゃいますか?」という質問に彼女はこのように返していた。

「私は自分のことをエンタメ作家だと思っていて。昔は一息で読めるもの、あっという間に読めてしまうようなものが面白いと思っていたんですけれど、面白さにも色んな種類があって。ちんたら読んだりとか、ときどき立ち止まって、続きを間を開けてから読んだりとか、面白さには色んな種類があるので、これからは色んな種類の面白さを体感できるような小説を書いていきたいと思います」

『失われた地図』も『錆びた太陽』も、テーマはそれぞれ「ナショナリズム」と「原発」で、重くシリアスなものだが、基本的にはエンタメ小説で、読んでいると続きの展開が気になってなかなか本を閉じることができなくなってしまう本である。しかし、読み終えたあとには、現在の日本が置かれている諸問題について発信された彼女からの疑義について一考せずにはいられなくなる。それこそが、彼女の言う「色んな種類の面白さ」だろう。

 いま日本では、カルチャーやエンタテインメントに政治をもち込むなという主張が跋扈しているが、そんな状況のなか政治的なテーマを扱いながらエンタテインメントとしても昇華しようとする恩田陸の試みには非常に大きな意味があるだろう。
(新田 樹)