現在の入り口。20の店名のなかには、「玉菊」「谷ラーメン」「ミルクワンタン」の文字も確認できるが、もうない店の名も残る(撮影:フリート横田)


黄色と黒のストライプ柄の工事用フェンスが、アーチを隠すように並ぶ。耐震補強工事のためにその奥にあった飲食店はすでに退去し、今は資材などが置いてあるのみだ。こうすることが必要な処置なんだと頭ではわかっていても、どうにも痛々しい……。有楽町駅を出てすぐ、在来線と新幹線が走る高架橋の下にある「有楽町高架下センター商店会(以下、高架下)」。その一角、東京国際フォーラム前あたりの様子である。

そのなかにあった「玉菊」は、昭和26年に高架下に店を聞き、現在はすぐ脇のアーチに仮店舗を構えて営業を続けている。店主の清宮(きよみや)宏造さんは、大正11年のお生まれながら今日もカクシャクとして店頭に立つ。清宮さんは終戦後、昭和21年に中国大陸から復員し、ヤミ米などを千葉や埼玉からヤミ市へと運ぶ「カツギヤ」をやって糊口をしのいだ。資金を貯めると、「ヤミ市にあった喫茶店を4万円で買ったんだよ。店は2坪もなかったな」。

ヤミ市の人々を集めて生まれた「すし屋横丁」

ヤミ市があったのは、有楽町駅から外堀川(現・東京高速道路)にかけたあたり。ここには都の交通局があったが、戦後焼け跡となりヤミ市ができた。当時は「350軒も店があった」そうだ(500軒とする資料もある)。ところが疎開していた交通局が同地に戻ることになった。そこで昭和23年、駅寄りの土地にヤミ市の人々を集めて生まれたのが、バラック飲み屋街「すし屋横丁(以下、すし横)」である(すし屋だけでなくホルモン屋、バー、食堂、喫茶店、滋養強壮にマムシの生き血を飲ませるヘビ屋などもあったという)。


有楽町高架下センター商店会のすぐ近くで、 仮店舗で営業している「玉菊」。インドマグロに定評がある店なので、刺身と瓶ビールでどうぞ(撮影:フリート横田)

「その後、3度にわけて立ち退きをさせられて。第1回目が『すし横』でな。 銀行の応接室での抽選で123軒 (106軒とする資料もある)が当選して、そこにうちも入れたのよ」。清宮さんは幸運にも横丁内に移りすし屋に転業することができたが、落選組や2回目、3回目の人々はその後、田町、赤羽、鶯谷などに流れ、散り散りになったという。

その「すし横」も、建設予定の東海道新幹線の用地にかかったこともあり、昭和42年に取り壊される。立ち退き交渉が長引き、先に新幹線が開通してしまうという、あべこべな事態になったのだが、最終的に、同じ頃に横丁前に竣工した東京交通会館地下街や、新橋駅前ビル地下街、そしてこの「有楽町高架下商店会」に移っていった(ちなみに「玉菊」は、「すし横」内と高架下に2つの店を持っていた。高架下の店は当初は酒場で、のちにパチンコ店、雀荘、再度酒場になり、その変遷もおもしろい)。


現在は、東京駅近くにある「谷ラーメン」。ラーメンも旨いが、親父さんの昔話がまたいい(撮影:フリート横田)

同じく、かつてセンター内にあったのが「谷ラーメン」だ。「うちは外濠の川っぷちの読売新聞本社の前で自転車屋やってたんだけど、埋め立てることになって、昭和31年に国鉄の高架下に来たの。それで途中から (昭和42年)ラーメン屋にしたんだよ」と店主の谷吉和さんは笑う。

センター内のアーチの1つに、数店の飲食店が並び共同便所もついた「丸三横丁」なる極小アーチ内横丁があり、「谷ラーメン」もここにあった。かつては移転前の都庁施設が高架下センターを挟むように立ち並び、高架下では都庁の職員が大勢行き来していた。

「昔は都庁の人がよく来てくれたよ。 部局ごとにだいたい行く店が決まっててね。隣の店のばあさんの葬式は水道局の人が仕切ったりしたんだよ」

一般的な店と客との関係よりもずいぶんと濃密な人付き合いがあったようだ。古びてすすけたアーチ内の色味は誠に心惹かれるものがあったが、惜しくも昨夏、件の工事のために閉鎖されている(なお、谷ラーメンは東京駅に近づいた高架下で店を再開している。懐かしの“アッサリ醬油ラーメン”をぜひご賞味あれ)。

メニューがなく、勝手になにか出してくれる


今もセンター内で営業している「ミルクワンタン 鳥藤」。女将さんは傘寿を超えておられるが、毎夜店に立つ(撮影:フリート横田)

多くの店がセンター内から姿を消してしまったなか、今も営業を続けている店がある。それが「ミルクワンタン 鳥藤」だ。この店も「すし横」からの移転組である。「新聞社のお客さんが多かったわね」。女将の藤波須磨子さんが言うように、かつて有楽町駅周辺には、朝日、読売、毎日の新聞3社の社屋があった。店内には記者が手作りした「すし横」の見取り図や、カメラマンが撮った当時の写真も飾られている。

この店、メニューがない。座ってビールかなにか飲み物をお願いすれば、あとは和え物や焼き物、煮物などなど女将さんが勝手に出してくれる。最後のシメがミルクワンタンなのだ。ホルモン(後に鶏肉に変更)や野菜を牛乳で煮込んだこの料理は、戦後、人々に滋養をつけさせようと女将さんの祖父が考案した。1杯やったあとにこれをすすれば、なんともあったかい気持ちで帰路につける。

工事のためにだいぶ寂しくなった高架下センターだが、こうして“ヤミ市 酒場”以来の料理にもありつけるし、 おやじさんや女将さんたちにも会える。薄暗い高架下の暗がりには、戦後の盛り場の熱がまだ、残っている気がしてならない。