韓国当局に拿捕されて釜山港に連行された日本漁船と、その警備にあたる憲兵(1955年12月/写真=時事通信フォト)

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日韓が領有権を主張している竹島。韓国は、竹島の領有権を固めようと、過去に約4000人の日本人を不法に抑留し、そのうち8人を死亡させている。事の始まりは「李承晩ライン」だ。1952年に韓国の李承晩大統領が宣言した境界線で、この境界線を越えたとして日本漁船の拿捕を続けたのだ。抑留された漁師は「地獄」を味わったという――。

■劣悪な環境、暴力的な刑務官

「“この世の地獄” 日一日と弱る体力」。1956年5月19日、島根県の地方紙石見タイムズは、韓国当局に拿捕され抑留されていた漁船乗組員の石田儀一郎さんが、韓国の収容所から送った手紙を掲載しました。

「異国刑務所においてはこの世の地獄の生活を味わい、冬は零下15度を降(くだ)る、膚(はだ)を裂く寒さの中に相(あい)擁(よう)して暖をとり、夏は狭い監房の中で呻吟(しんぎん)し、格子窓越しの移りゆく四季に、また漏れきたる三日月に我が身の不幸を嘆き妻子をしのび、思いを故国の山河に馳(は)せて耐えて参りました」(新字・新仮名遣いに編集部で修正)。

韓国の李承晩大統領は1952年1月、独断で公海上に排他的経済水域の境界線(李承晩ライン)を突如設定し、この海域内の無断立ち入りは許さないと一方的に宣言しました。この宣言以前、韓国が建国される前の1947年ごろからも日本漁船の拿捕は始まっていましたが、李承晩ラインの設定はそうした動きをさらに強化するものでした。「海上保安白書」(昭和41年版)によると、日韓が国交を回復する1965年までに、韓国当局は327隻もの日本漁船を拿捕。3911人の漁師を拘束し、うち8人が死亡しました。

拘束された漁船員に何が起きたかは、抑留経験者のグループがまとめたガリ版刷りの『韓国抑留生活実態報告書』や、その後刊行された『日韓漁業対策運動史』に詳しく記されています。彼らは韓国に連行され、狭い部屋の中に大勢で閉じ込められ、しばしば刑務官から殴る蹴るの暴行を受けました。拿捕された日本漁船の多くは李承晩ラインの内側に入っていなかったのですが、それでも「入った」という供述を求められ、従わなければ暴行されました。

日本からの差し入れ品の小包は刑務官たちによって横流しされ、劣悪な食事や不衛生な環境で腸チフスなどの病気も多発。まともな治療も受けられずに病死したり、精神の平衡を失った状態で日本に強制送還された人もいました。まさに収容所は「この世の地獄」だったのです。

■「日本叩き」で信任回復を狙う

李承晩ラインはなぜ、突如引かれたのでしょう。1952年、朝鮮戦争は膠着状態に陥り、アメリカとソ連との間で休戦交渉が行われていました。李承晩は北朝鮮への徹底抗戦を主張しましたが、アメリカは耳を傾けようとはしません。

韓国軍は北朝鮮軍にやられっ放しで、軍事的成果はほとんど上げられませんでした。焦った李承晩は、スパイ狩りの名目で「保導連盟事件」をはじめとする自国民の大量虐殺という愚挙に出ます。朝鮮半島を武力で統一すべきだという李承晩の主張もアメリカに拒絶され、政権の信任は地に落ちていました。

起死回生を図った李承晩は、日本を叩き、それを喧伝することで、国内世論を自分に有利に誘導しようとしました。そして、李承晩ラインとともに、竹島の領有を一方的に宣言。竹島に警備隊員を常駐させ、今日まで続く不法占拠を始めます。

日本はこのときアメリカ軍の占領下にあり、国家主権がないために韓国に対抗する手段がない状況でした。李承晩ラインの宣言は、サンフランシスコ講和条約が発効し、日本の主権が回復する直前のタイミングで行われたのです。

■アメリカ政府の却下も押し切り

とはいえ、李承晩ラインが国際法上、違法であることに変わりありません。サンフランシスコ講和条約において、日本は「済州島、巨文島及び鬱陵島を含む朝鮮」を放棄しました。この中に、竹島は含まれていません。李承晩はこれに抗議し、日本の放棄地に竹島を含めるようアメリカに要請しました。しかしアメリカ政府は、いわゆる「ラスク書簡」で「ドク島、または竹島ないしリアンクール岩として知られる島に関しては、この通常無人である岩島は、我々の情報によれば朝鮮の一部として取り扱われたことが決してなく、1905年頃から日本の島根県隠岐島支庁の管轄下にある」(*1)と記すなどして、その要請を却下しています。

日本は古くから、竹島を漁業の重要な拠点とし、地図や文献に記載してきました。江戸時代初期の1618年、幕府は鳥取藩の漁民に、竹島近海の漁業を認めます。幕府が鎖国令を出した時にも、竹島は自国の領土として渡航禁止の対象にはならず、漁業が続けられていました。

韓国の古文書に、竹島(韓国側の呼称は独島)の記述は見られるものの、行政権や領有権が及んでいたとする内容は見あたりません。

明治時代の1905年、日本政府は竹島を島根県に編入することを閣議決定しました。同時に、隠岐島の住民の要請を受け、明治政府は竹島を隠岐島庁の所管とします。

韓国政府は「1905年の第二次日韓協約により、主権を日本に奪われ、竹島も奪い取られた」と主張しています。韓国側が竹島問題を「日本の帝国主義の始まり」とする理由、そして、「竹島が韓国領である」とする理由がここにありますが、1905年の閣議決定や日韓協約を経ずとも、前述のように、17世紀の江戸幕府が既に竹島を自国の領土としていたのであり、韓国側が主張するような明治政府の帝国主義政策とは関係なく、竹島は元々、日本の領土であったのです。

■漁船員の損害は日本政府が補償した

1963年、朴正煕がクーデターで大統領に就任した時、韓国経済はどん底でした。政府は経済を建て直すための予算すら確保できませんでした。朴正熙は日本の資金に頼るため、日本との関係を見直しはじめます。

1965年、日韓基本条約が結ばれ、国交が正常化しますが、竹島問題は棚上げにされました。日本は韓国政府に総額8億ドル(無償3億ドル、政府借款2億ドル、民間借款3億ドル)を供与します。これは当時の韓国の国家予算の2倍以上の額でした。この巨額の支援金を使い、韓国は「漢江の奇跡」といわれる経済復興を遂げます。

日韓基本条約に付随する形で、「財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定(日韓請求権並びに経済協力協定)」も同時に締結されました。日本が韓国に経済支援を行うことで、この協定の署名の日までの両国及び国民の間での請求権は「完全かつ最終的に解決」されるという内容でした。つまり、両国はこの協定によって、戦時中などに生じた事由に基づくいかなる請求も認めないとしたのです。

この請求権の中には、「李承晩ラインを越えた」ということで拿捕された日本漁船、その乗組員らから生じたすべての請求権も含まれていました。従って、日本はこの協定に基づき、拿捕された漁船や漁船員の被害・損害を、韓国に請求していません。日本の政府が自ら、被害者や遺族に対し、様々な補償を行ったのです。

■個人の請求権は国家間の条約に勝る?

一方の韓国政府は、請求権協定を国民に隠蔽していました。李明博政権時代の2009年、韓国政府はようやくこの協定の存在を公式に認めましたが、『軍艦島』という映画の大ヒットにもみられるように、韓国では今「強制徴用工」の問題が取り沙汰されています。

韓国の光州地裁は、戦前に三菱重工業の名古屋工場で強制徴用されたという訴訟に対し、8月8日に計1億2325万ウォン(約1170万円)の賠償、11日に計4億7000万ウォン(約4500万円)の賠償の支払いを三菱重工業に命じる判決を出しました。

この判決について文在寅大統領は、「両国間の合意は個人の権利を侵害できず、元徴用工の個人が会社に持つ民事的な権利は残っているというのが韓国憲法裁判所と大法院(最高裁)の判例である」という見解を表明。これに対し日本政府は、ソウルの日本大使館を通じて「徴用工問題は1965年の日韓請求権協定で解決済み」という立場を改めて伝え、韓国政府が従来の「解決済み」という立場を変更したのかどうかの確認を求めました。日本の一部メディアは、文大統領が8月25日の安倍首相との電話会談で問題の発言を修正したと報じましたが、日韓両国政府からはこの件について正式な発表は行われていません

(*1)外務省公式サイト「サンフランシスコ平和条約起草過程における竹島の扱い」における日本語訳より

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宇山卓栄(うやま・たくえい)
著作家。1975年、大阪生まれ。慶應義塾大学経済学部卒業。おもな著書に、『世界一おもしろい世界史の授業』(KADOKAWA)、『経済を読み解くための宗教史』(KADOKAWA)、『世界史は99%、経済でつくられる』(育鵬社)、『“しくじり”から学ぶ世界史』 (三笠書房) などがある。

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(著作家 宇山 卓栄 写真=時事通信フォト)