人妻が恋するのは、罪なのか。

裕福で安定した生活を手に入れ、良き夫に恵まれ、幸せな妻であるはずだった菜月。

結婚後に出会った彼は、運命の男か、それとも...?

人妻の菜月は、独身のフリをして参加した食事会で、独身の達也と出会い、恋に堕ちてしまう。

しかし、それを知った達也の恋人・あゆみは菜月の職場に乗り込み、修羅場と化し、さらに夫にまで浮気を知られてしまう。




夫に知られるわけがないなんて、どうして思い込んでいたのだろう。

ヨガスタジオであれだけの騒ぎになり、気性の激しいあゆみに恨まれたのだから、何らかの形で夫に伝わる可能性があるのは予想できたではないか。

「僕は、君を頭の良い女性だと思ってるからね。ほどほどにしておいてくれよ」

宗一は、たった一言、そう警告しただけだった。

そこに怒りや悲しみといった感情は一切込められておらず、それが逆に恐ろしかった。

菜月は何も答えることができず、ただ鳥肌で全身を震わせていたが、夫はそれ以上追求することはなく、淡々といつも通りの日々を過ごしていた。

これまでは平然と嘘をつき、妻の顔を崩さずに宗一に接してきたつもりだ。

しかし弱みを握られているかもしれない今となっては、彼の一挙一動が気になって仕方がなく、神経がすり減っていく。

―こんな生活、いつまで続けるの...?

自業自得なのは分かっているが、仕事も友達も失い、家庭内でも気が休まらなくなったことで、菜月はどんどん精神的に追い詰められていった。


夫の冷静な圧力に負け、菜月が痺れを切らす...?!


内に秘めた、夫の怒り


「どうして、何も言わないのよ...?」

宗一の警告から数日、普段と何一つ変わらない、自然とも不自然とも言える夫の態度に怯えながら日々を過ごしていた菜月は、とうとう痺れを切らしてしまった。

会話のない夕食中に、彼が突然「少し遅いけど夏休みをとるから、ヨーロッパにクルーズ旅行にでも行こう」などと、突拍子もない提案をしたからだ。

「何も...って?」

夫は笑顔で首をかしげるが、その目の奥は、全く笑っていない。

「...だって、宗一さん、本当は、ぜんぶ知ってるんでしょう?」

菜月の声が、わなわなと震える。

ここ最近、ずっとビクビクと夫の顔色を伺い続けていた。彼は、自分の不貞を知っているのか知らないのか。穏やかな態度の裏に、どんな思惑があるのか。

毎日寝食を共にする夫から見て見ぬふりをされるのは、生殺しにされるような苦痛があったのだ。

しかし宗一は動揺する菜月に全く動じず、余裕の微笑みで小さく溜息をついた。




「菜月、落ち着いて。君の言う通り、だいたいのことは把握してるよ。頭の悪そうな女から電話があったからね。でも大丈夫。僕は怒ってなんかないから、何も心配いらないよ」

背筋に戦慄が走り、菜月は言葉を失う。

「僕たちは、何不自由ない、恵まれた夫婦じゃないか。そろそろ子作りだって本格的に始めるんだし、今のうちに夫婦だけの時間を楽しんでおこうと思っただけだよ」

彼は子どもに言い聞かせるような口調で言うと、ダイニングテーブルの席を立ち、背後から菜月を優しく抱き締めた。

「...どうして怒らないの?私、もう普通になんてできない...。私たち、もうダメ...」

「“できない”じゃなくて“する”んだよ。今まで通り、普通にね。君は一生、僕の妻なんだから」

宗一は依然として冷静に言うと、抱きしめる腕に力を込めた。

「私...、他に好きな人ができたのよ...!」

その瞬間、菜月はどうしようもない夫への嫌悪感に駆られ、自分でも信じられない言葉を口走っていた。

夫の腕が、ぴくりと震えた。そして次には、息苦しいくらいに菜月の身体にのめり込んでいく。

「大丈夫。それでも菜月は、僕の奥さんだよ」

菜月はこのとき、やっと一つの現実を理解した。

夫はやはり、ただならぬ怒りを胸の内に秘めている。

そして、この妙な寛大さが、妻を痛めつけるのに一番効果的だと判断したうえで、敢えて友好的に接しているのだ。

今さらながら、菜月は結婚という奇妙な制度が恐くなった。

結婚していても、感情だけは自由に行き来できてしまう。にも関わらず、紙切れ一枚で結ばれた妻という立場は、想像以上にずっと重いものなのだ。


夫婦仲が破綻するほど、妻の気持ちは外へ向いていく...?


人妻との恋に、盲目になった男


「達也くん......?」

電話越しに菜月の柔らかな声を聞くと、緊張の糸が切れたように、達也の全身に安堵が広がった。たった2つ年上というだけだが、彼女には母性を思わせる包容力がある。

「急に電話なんかして、ごめん...。でも、菜月さんがどうしてるか心配で...」

本音だった。

あゆみが迷惑をかけたことは自分の責任であり、その後の菜月が無事に日々を送っているのか、どうしても気になっていた。

だから、きっと安全に違いない平日の昼間という時間を狙い、達也はオフィスを抜け出し電話をかけたのだ。

「...私、もうダメかもしれない。達也くんに会いたい...」

しばらくの沈黙ののち、菜月が消えそうなほど細い声で答えたとき、達也はいたたまれないほどの愛しさを感じた。

菜月に惹かれたのは、もちろん外見や雰囲気が好みだったこともあるが、“人妻”という存在に興味を掻き立てられたことも否定できない。

これまで達也は、あまり胸を張れない女性関係ばかり結んできた。

夜の街で出会う女たちはどれも同じに見え、肉体的な欲望しか持たなかったし、深入りせず“味見程度”にとどめておくのが賢い方法だと思っていた。

そもそも自分は、根本的に女という生き物を信用しておらず、ましてや人妻に深入りしてトラブルを起こすリスクを取るような男ではなかったはずなのだ。




だが、菜月と逢瀬を重ね、真面目な彼女が既婚という立場に葛藤しながらみるみる壊れていく様子を目の当たりにするうち、軽い好奇心が、重みのある感情に変わった。

愛情、執着、そして独占欲。

菜月は達也の腕の中で従順に乱れながらも、その全身から、夫に愛され守られる女特有の余裕と色香を纏っていた。

そのアンバランスさに嫉妬心を煽られ、壊れていくのは彼女ではなく、むしろ自分であるような気がした。

―菜月を自分のものにしたい。彼女が本気なら、自分もそれを受け止めるー

そんな風に思っていた矢先にあゆみが事件を起こし、菜月は手の届かない場所へ戻ってしまったのだ。

しかし彼女は今、夫から巧妙に懲らしめられ、辛い思いをしているという。

「俺、やっぱり菜月さんと離れるなんて絶対に嫌だ。一緒にいられる方法を考えようよ」

深く考えるより先に、達也は菜月を説得し始めていた。

こんな無責任なことを言っていいのだろうか。いや、責任をとる覚悟はある。

「そんなこと、できるの...?」

「大丈夫だよ、俺は本気だよ。だから、ちゃんと計画しよう」

「本当に?本当なの...?私、達也くんと一緒にいられるの?」

切羽つまった菜月の声は、甘く切なく耳に響く。そんな彼女に「大丈夫だよ」と何度も繰り返したのは、自分を奮い立たせるためでもあったかもしれない。

いい大人が恋に堕ちるということは、それまでの居場所を失うという意味に等しい。

感情に流され盲目になった男女は、すべてを投げうってでも愛を貫くことが、自分たちの正義であるように思えるのだ。

▶NEXT:10月7日 土曜更新予定
さらに深まる菜月と達也の関係。しかし、波乱はさらに続く...!