児童書として長く読み継がれる、ミヒャエル・エンデの『モモ』。子ども向けに書かれた本ですが、大人が読めば、日々効率を追及する現代社会への痛烈な批判に気づくはずです(撮影:尾形文繁)

児童書の魅力は、子ども向けに書かれた本だから単に「わかりやすい」ということではありません。子どもは、大人と比べれば、知識も少ないし経験も少ない。けれど大人は、知識を獲得し経験を積むことによって、むしろ目が曇ってくることがあります。素朴な子どものほうがその場の空気を読まないで本質を言い当てます。
だからこそ、子ども向けに本を作ろうとしたらごまかしが利きません。つまらないとすぐにそっぽを向いてしまいますから。だから、いい児童書は、無駄をすべて削ぎ落としたうえで、丁寧に作ってあるのです。
児童書は、子どもの気持ちにならないと楽しめない本ではなく、優れたものは、子どもが子どもとして楽しめるのと同様に、大人も大人として楽しめます。だから、まずは、大人に読んでもらいたいと思います。そのうえでおもしろければ、ぜひ子どもにも読んであげてください。

『モモ』は大人が読んでもワクワクする

世の中は、時間と空間の組み合わせでできています。身近な空間であれば、子どもにも理解がしやすいでしょう。公園の先には何があるのだろうと想像することも、きっとあるはずです。ところが時間は、とくに少し長い時間は目に見えませんから、子どもには少し難しい。

そうしたある意味抽象的な時間の観念を学ぶのに、『モモ』ほどすばらしい物語はありません。そしてこれは、大人が読んでも考えさせられるところがたくさんあって、ワクワク、ドキドキすると思います。たとえば、次のようなところ──。

とてもとてもふしぎな、それでいてきわめて日常的なひとつの秘密があります。すべての人間はそれにかかわりあい、それをよく知っていますが、そのことを考えてみる人はほとんどいません。たいていの人はその分けまえをもらうだけもらって、それをいっこうにふしぎとも思わないのです。この秘密とは──それは時間です。
時間をはかるにはカレンダーや時計がありますが、はかってみたところであまり意味はありません。というのは、だれでも知っているとおり、その時間にどんなことがあったかによって、わずか一時間でも永遠の長さに感じられることもあれば、ほんの一瞬と思えることもあるからです。
なぜなら時間とは、生きるということ、そのものだからです。そして人のいのちは心を住みかとしているからです。
(83ページ)

それでは、物語を見ていきましょう。『モモ』は構成がとてもしっかりしています。子どもによっては読むのが長いと感じるかもしれませんが、読み通すことができれば、本をしっかり読む癖がつきます。『モモ』がおもしろいと思ったら、次は、『ナルニア国物語』(全7巻)にスッと行けるようになるでしょう。

主人公は、モモという女の子です。モモは受け身で、そして少し不思議な感じのする女の子です。モモは、町外れにある廃墟になった円形劇場に住み始めました。近所の人たちから温かく受け入れてもらいます。そしてモモは、いつの間にか近所の人たちにとって欠かせない存在になります。

小さなモモにできたこと、それはほかでもありません、あいての話を聞くことでした。なあんだ、そんなこと、とみなさんは言うでしょうね。話を聞くなんて、だれにだってできるじゃないかって。
でもそれはまちがいです。ほんとうに聞くことのできる人は、めったにいないものです。そしてこのてんでモモは、それこそほかにはれいのないすばらしい才能をもっていたのです。
(23ページ)

近所の人たちは、かわるがわるモモのところに来ては、話をするようになりました。そして、誰もがモモに向かって話をしているうちに、自分で答えを見つけていく。

エンデが傾倒した、シュタイナーの教育理論

教育には、大きくわけて二つの考え方があります。一つは、人間は空っぽの器だからいっぱい教えてやらなあかんという考え方。もう一つは、教育とは人間が本来持っている力をいい形で引き出すことだという考え方です。

作者のエンデはおそらく後者でしょう。彼は、ドイツの哲学者・シュタイナーに傾倒していました。シュタイナーは、独自の教育思想を打ち立てその実践に力を注いだ人物で、子どもが本来持っている力を引き出そうという考え方を持つ人です。著者自身もそういう考え方だったからこそ、シュタイナーに傾倒したのでしょう。モモの話の聞き方もそうでした。

モモに話を聞いてもらっていると、ばかな人にもきゅうにまともな考えがうかんできます。モモがそういう考えをひきだすようなことを言ったり質問したりした、というわけではないのです。ただじっとすわって、注意ぶかく聞いているだけです。その大きな黒い目は、あいてをじっと見つめています。するとあいてには、じぶんのどこにそんなものがひそんでいたかとおどろくような考えが、すうっとうかびあがってくるのです。
(23ページ)

そろそろ時間の話に入りましょう。床屋のフージー氏は、お客さんが来るのを待っていたとき、不意にこんなことを考え始めます。

「おれの人生はこうしてすぎていくのか。」フージー氏は考えました。「はさみと、おしゃべりと、せっけんのあわの人生だ。おれはいったい生きていてなんになった? 死んでしまえば、まるでおれなんぞもともといなかったみたいに、人にわすれられてしまうんだ。」
(85ページ)

そこに登場するのが、灰色の男です。「時間貯蓄銀行」の外交員を名乗ります。

「いいですか、フージーさん。あなたははさみと、おしゃべりと、せっけんのあわとに、あなたの人生を浪費しておいでだ。死んでしまえば、まるであなたなんかもともといなかったとでもいうように、みんなにわすれられてしまう。もしもちゃんとしたくらしをする時間のゆとりがあったら、いまとはぜんぜんちがう人間になっていたでしょうにね。ようするにあなたがひつようとしているのは、時間だ。そうでしょう?」
(87ページ)

効率至上主義を全否定

読んでいくと、フージー氏には、灰色の男に付け入られる隙があったことがわかります。これは、自己啓発ビジネスの手口と同じです。高学年の子どもが読んだら、「小学校に入ったときからちゃんと勉強しておけばよかった。いまとは全然ちがう成績だったはずだ」などと過去のことを考えていたらあかんな、悪い人に付け込まれるなと気づくのではないでしょうか。

作者エンデの上手なところは、無駄にした時間を、次のようにきちんと計算して書き込んでいるところです。算数の好きな子どもだったら、きっと自分も計算しようとするでしょう。

「しかし冷静に考えれば、フージーさん、あなたにとってはそれはむだな時間だ。合計すればなんと2759万4000秒もの損失なんですよ。そのうえあなたには、毎晩ねるまえに15分も窓のところにすわって、一日のことを思いかえすという習慣がある。これがまた1379万7000秒のマイナスになりますな。さて、これでいったいあなたにどれくらいの時間がのこっているか、見てみましょう、フージーさん。」
(92ページ)

フージー氏は、灰色の男から提案された時間の倹約方法を実行します。お客さんとのおしゃべりをやめて手際よく作業をして、お母さんは養老院に入れて、寝る前に窓のところに座って一日のことを思い返すのもやめにしました。すると、彼はだんだんと怒りっぽい、落ち着きのない人になっていったのです。

フージー氏は灰色の紳士の訪問をうけたことをもうおぼえていないのですから、ほんとうなら、いったいじぶんの時間がどうしてこうもすくなくなったのか、しんけんに疑問にしていいはずでした。けれどこういう疑問は、ほかの時間貯蓄家とどうよう、ぜんぜん感じませんでした。なにかにとりつかれて盲目になってしまったようなものです。そして、毎日毎日がますますはやくすぎてゆくのに気がついて愕然とすることがあっても、そうするとますます死にものぐるいで時間を倹約するようになるだけでした。
(102ページ)

これは現代人の時間のつかい方への痛烈な批判です。効率至上主義を全否定しているのです。仕事で1分の無駄もなく、雑談することもなく働き続けてもちっとも楽しくありません。むしろ雑談のない職場では、いいアイデアは生まれないでしょう。

大人も読み進んでいくうちに、「あれ? 自分はこれでいいのかな、灰色の男にだいぶやられているな」と気づくかもしれません。このフレーズを読んだお父さん、お母さんは、きっと子どもに「はよ、勉強しなさい」「はよ、食べなさい」などとは言いにくくなるはずです。

時間と空間は、そういう意味では同じです。狭い部屋で一分の隙もなく、無駄なく合理的にベッドも椅子やテーブルも配置してあるような部屋は、コンパクトに整理されている反面、リラックスできません。ちょっとくらい整理整頓されていなくても、どこに寝転がってもいいような部屋のほうが人間はリラックスできるのです。

時間にも空間にもボーッとできる余裕がないと、良いアイデアなど生まれようがありません。凡百のビジネス書にはよく、「自分が何に向いているのか、自分は何をしたいのかをはっきりさせなさい」などと書かれています。それがわかったほうが、人生が効率的に回ると。自分の適性がわかっている人はそれでいいのですが、僕が見ている限り適性がわからない人のほうが実ははるかに多いのです。

効率にとらわれると、大切な方向を見失う

効率にとらわれると、かえって大切な方向を見失います。テニス選手の錦織圭さんのように特別な才能のある人間なら、「僕はテニスをやればいい」とわかるかもしれませんが、歴史的に見てもほとんどの人間はやりたいことがわからないまま、偶然どこかに勤めて、偶然誰かと結婚して、そのまま死んでいくのです。

それで十分なので、自分が何に向いているのかとか、自分は何をなすべきかとかは、別にそれほど大事なことではないと思うのです。もっと自然に、川の流れに流されて生きたほうが人生は楽しい。

灰色の男はモモに向かって次のように言いました。

「人生でだいじなことはひとつしかない。」男はつづけました。「それは、なにかに成功すること、ひとかどのものになること、たくさんのものを手に入れることだ。ほかの人より成功し、えらくなり、金もちになった人間には、そのほかのもの──友情だの、愛だの、名誉だの、そんなものはなにもかも、ひとりでにあつまってくるものだ。きみはさっき、友だちがすきだと言ったね。ひとつそのことを、冷静に考えてみようじゃないか。」
(141ページ)

エンデはこの作品を通じて、何かに追われる人生は本当に楽しいのかと、現代の高度産業社会を徹底して批判しています。

『モモ』を読んだ子どもたちは大人ほどには、エンデの批判的な視点には気づかないかもしれませんが、毒は心のどこかに確実に残るはずです。

この『モモ』という作品は、1973年の発売当初、ドイツ国内の文化人から「ノンポリ的逃避文学」として非難されました。

当時は第二次世界大戦からの復興が成し遂げられて、経済が高度成長していた時代です。だから、勤勉で一所懸命働くプロテスタントのまじめな人々の神経を逆なでしたのでしょう。暮らしそのものが科学技術の進歩によってどんどん合理化されて、無駄な時間が減って、みんなが豊かになるのは何が悪いのかと。でもエンデはさらにその一歩先を見ていた。

読みの浅い人には、サボタージュを推奨している物語だと映ったのかもしれません。のんびりが一番なんてけしからん、と。

けれど作者のエンデは、決してまじめに働くことを否定しているわけではないのです。僕もいつも労働生産性を上げよう、と言っていますし、自分自身もそう心がけていますが、本を読むなど好きなことをする時間はきちんととっています。

灰色の男たちの主張は、無駄なことは一切やめて、毎日ずっと働き続けなさいということです。それでは人間が本当に歯車の一部になってしまいます。

そもそも灰色の男たちには名前がなく、記号で呼ばれているのはとても象徴的です。ナチスの強制収容所もそうでした。時間は人間の行動を支配していますから、時間のつかい方をもっと考えたほうがいい。おそらくエンデは、こんなことをやっていたら、またナチスの時代に戻ってしまいますよ、と暗に伝えたかったのではないでしょうか。

モモを時間の国へと案内した、カメのカシオペイアも名脇役です。カシオペイアはひたすらゆっくり歩きます。

「ねえ、おねがい。」モモはカシオペイアに言いました。「もうちょっとはやく歩けない?」
「オソイホドハヤイ」
カメはこうこたえると、これまでよりもっとのろのろと這いました。そしてモモも──このまえのときにもそうだったのです──ここではそのほうがかえってはやくすすめることに気がつきました。ゆっくり行けば行くほど、まるで足もとの道路がふたりをのせて、どんどんはやくはこんでくれるようなのです。
(346〜347ページ)

浦島太郎を竜宮城に連れていったのもカメでしたが、モモを時間の国に連れていくのもカメです。「オソイホドハヤイ」は、ローマ帝国初代皇帝のアウグストゥスが好んだ言葉「ゆっくり急げ」にも通じます。

子どもは急がされることをとても嫌がります。朝、保育園に急いで連れていこうとしてもなかなか言うことをきかない。お父さん、お母さんは焦ってイライラする。

だけど急がされることを嫌がることこそが、人間の本性の一つだと思うのです。子どもにも自分のペースがあって、もっとゆっくりしたい。急ぐのは、ほとんどが大人の都合です。しかもちょっとぐらい急いだところで大した差はありません。

こうしてエンデは、無駄な時間をなくすことにどれだけの価値があるのか、と繰り返し問い続けます。

大人になって読み返せば、より本質に近づける

『モモ』は時間という高度な観念を子どもに教えてくれるだけではなく、今の社会(常識)に対する鋭い批判の目を養ってくれます。今の社会が決して理想ではなく、いろいろな考え方があるということを、やさしくていねいに教えてくれます。しかも話がおもしろくてイメージが鮮烈なので、子どもの心にもしっかりと残ることでしょう。


エンデは『モモ』を通じて、資本主義反対、市場経済反対というような単純なことではなく、もっと根源的な深いことを伝えようとしています。大人が読めば、より深い洞察ができる部分もありますが、それを直観的に理解するのは、大人よりもむしろ子どもです。曇りのない子どもの目だからこそ、素直に物語に入り込むことができ、エンデのメッセージをまっすぐに受け取れるのではないでしょうか。そして、大人になって読み返したときも、きっとより深くこの物語の本質に近づけるでしょう。

主人公のモモのキャラクターはさほど強くはありません。モモは実体のない鏡のようなもので、単なる主人公ではなく狂言回し、つまり物語の進行役でもあり、エンデの分身でもあるのです。

エンデは、この物語を書くのに6年もの歳月をかけました。ゆっくりと、そして夢中になって書き上げたのでしょう。その成果は見事としかいいようがありません。子どもと一緒にじっくりと味わってみてください。