写真:AFLO

 福山市は広島県の東端に位置する。東に倉敷、西に尾道という観光都市に挟まれているせいか、その名はあまり知られていないが、県下では広島に次ぐ大都市である。

 日本で唯ひとりのアウトサイダー・キュレーターとして知られる櫛野展正さん(41)は、福山で生まれ育ち、今も福山に活動拠点を置き、アウトサイダー・アーティストの取材に東奔西走の日々を送っている。

 アウトサイダー・アーティストとは、既存の美術や文化潮流とは無縁の文脈で制作をおこなう芸術家を指し、キュレーターは展覧会の企画や構成などをおこなう人のことである。

「福山にこだわるのは、インターネットの普及で地域格差がほとんどなくなっていて、アンチ東京カルチャーというか、地方のほうが盛り上がっているから。

 それに、僕は福山から外に出て生活したことがない。今履いている靴も福山産。メイドイン福山を大事にしていて、福山発信の何かを作っていきたい。環境的にも福山は安全で、原発や震災の心配があまりないこともある」

 櫛野さんにはこれまで3度の転機があった。

 1度めは岡山大学の特別支援教育特別専攻科の1年生のときだ。ゼミの強制合宿で福祉施設を訪れた。そのとき初めて重度障害者と直接触れ合った。そして人生観がすっかり変わり、本格的に障害者福祉の世界に関わろうと思った。

 櫛野さんが目指したのは特別支援学校の教員だった。しかし卒業時に広島県では教員の募集がおこなわれなかった。それで地元の知的障害者福祉施設に就職した。2000年のことだ。

 そこで障害者たちが常に受け身の生活をしていることを知った。大切なのは自己主張できることで、その手段としてアートを取り入れた。それが第2の転機となった。

「障害者支援をしていくなかで、僕が支援していた人たちの表現がすごく有名になって、パリで展覧会が開かれたり、ニューヨークで絵が売れたりした。

 2012年には福山に『鞆の津ミュージアム』が出来た。勤めていた福祉施設の運営で、僕はキュレーターとして展覧会の企画をまかされた。そこでヤンキーとか死刑囚の方の作品展覧会とか、広い意味で福祉を目的にした、新しい表現を見せるようなことをやった。

 そのころは絵を描けばすぐ美術館に飾られるような障害者の人たちの待遇に違和感を覚えて、それで街の中にいる表現者に目を向けるようになった」

 それが櫛野さんを第3の転機へ導く。2016年、福祉施設を辞め、アウトサイダー・アートの専門ギャラリー「クシノテラス」を立ち上げた。

「街を歩いたときにひたすらモノを作っている人とか、誰にも知られずに死んでいく表現者とか、たくさん見つけることができて、こういう人たちこそ誰かが取材して記録に残すとか、作品を保管しなければいけないと思った」

 独立を決意した直接のきっかけは、80代の表現者に取材をしたことだ。その人は39歳でサラリーマンを辞め、以来自分のためにだけ絵を描いてきた。売るための絵は一切描かない。絵を描くために日雇い労働をした。

 発想が違っていた。39歳だった櫛野さんは我が身を振り返った。キュレーターとしてやりたいことができなくなっていたこともあり、やりたいことをやろうと決意した。

「僕の肩書はアウトサイダー・キュレーター。ただアウトサイダー・アートの展覧会を企画するのではなくて、アウトサイダー・アーティストと呼ばれる人と一緒に、 同じ目線で伴走したいという思いがある。この人たちの人生を追いかけたい。ある意味でジャーナリズムというか……」

 独立したもうひとつの理由が表現者への還元だ。以前、ある男性障害者の家に作品を借りに行ったとき、高齢の父親から「お前らが作品を使ってお祭り騒ぎをしているだけじゃないか」と言われた。

 年老いた親は自分の死後、子供がどうなるのか経済面をいちばん心配する。「クシノテラス」では前の組織ではできなかった販売をおこなうと同時に、積極的に海外にも作品の売り込みを図っている。

「美術館には保存収集という役割があるが、美術館の外にも魅力的な作品があることを伝えていかないと、いつまでたっても街のへんなおじさんは、へんなおじさんのまま。街の表現者の紹介をライフワークにしたいが、取材費用など僕の財布事情次第のところがあり、いつまで続くかわからないというところもある」

 櫛野さんは4月に街の表現者の取材内容をまとめた『アウトサイドで生きている』を上梓し、今は第2弾を執筆中だ。さらに「アウトサイドの現場訪問ツアー」も始めた。

 やりたいことはいっぱいある。とにかく忙しい。色男にないのは金と力だが、櫛野さんに今足りないのは時間と財布の中身のようだ。
(週刊FLASH 2017年10月10日号)