嫉妬・束縛・幽閉…。戦国一のヤンデレ夫、細川忠興の愛が重すぎて重すぎて。

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有能だけどキレやすい細川忠興

細川忠興は、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康といった有力者に仕えた戦国大名のひとりで、父・細川幽斎とともに肥後細川家の礎となった人物です。

忠興は武勇に秀でるだけでなく、文化人・教養人としても知られていて、かの千利休の高弟「利休七哲」のうち、さらに優れた茶人である「利休三人衆」としても数えられているほどです。

細川忠興像(永青文庫蔵)

文武両道で容貌にも優れ一見非の打ち所のない細川忠興ですが、その性格は短気で、気に入らない人間をすぐに手討ちにすることでも有名でした。三十六人もの家臣を手討ちにした刀「歌仙兼定」の存在からも、忠興の性格の苛烈さがうかがえます。

さらには一部の歴史マニアの間でこんなふうに囁かれています。「細川忠興は戦国時代屈指のヤンデレである」と。

美貌の妻・細川玉子

忠興の正室・玉子(たま/玉/珠とも)は、明智光秀の三女であり戦国一の美女と誉れ高い女性でした。

玉子はのちにキリスト教に改宗、ガラシャという洗礼名を授かります。玉子よりも細川ガラシャという名の方がピンとくる人が多いかもしれません。

細川忠興とガラシャ像(勝竜寺城公園内)

忠興は結婚当初から玉子を深く愛し、美男美女の仲睦まじい夫婦として幸せに暮らしていました。しかし、いつからか忠興は、玉子に対して常軌を逸した強い執着を見せるようになります。この執着心がわかる逸話が多く残ることから、現代人に「忠興ってヤンデレ……」と評されるようになったのです。

「そもそもヤンデレって何?」という方がいるかもしれませんね。簡単に説明すると、病的なまでに相手に好意を抱き、表現することといったところでしょうか。

それでは引き続き、世に伝わる忠興のヤンデレエピソードをご紹介します。

玉子を丹後の山奥に2年間幽閉

明智光秀の謀反により「逆臣の娘」となった玉子。当然その立場は危ういものとなり、玉子を持て余した細川家としても「忠興と離縁させては」という声があがります。

錦絵 本能寺焼討之図

そこで忠興は、表向きは玉子と離縁したように見せつつ、玉子を丹後国の味土野という山深い地に隔離・幽閉します。その期間、なんとおよそ2年。この幽閉が、玉子を手放すまいとする執着からなのか、逆臣の娘として危険が迫る玉子を純粋に守ろうとしたものなのか、忠興の正確な意図はわかりません。

しかし、幽閉生活は当然ながら玉子にとって大きなストレスだったようで、次第に夫婦仲に亀裂が生じます。夫の束縛に疲れ果てた玉子は、「夫と別れたい」とこぼすようになりました。

鬼と蛇と罪なき庭師

これは忠興と玉子の歪んだ関係を物語る、特に有名な逸話です。

ある日、庭の手入れをしていた庭師が、ふと居室にいる玉子の姿を目に留めました。庭師は礼儀として玉子に会釈しますが、その現場を忠興が目撃。「よくも玉子を見たな」と激怒した忠興は、なんとその場で庭師を斬り殺してしまいました。

さらに忠興は、刀についた庭師の血を玉子の小袖で拭います。しかし玉子は怯えるどころか、眉ひとつ動かしません。そんな妻を、忠興は罵ります。

「おまえは蛇のような女だ」

すると玉子はこう応えました。

「鬼の女房には蛇がお似合いでしょう」

細川家史『綿考輯録』に残る逸話ですが、なんともはや、恐ろしい夫婦ですね。

他にも色々やらかした忠興さん

忠興のヤンデレエピソードには、他にも次のような話が伝わっています。

玉子が秀吉に見初められることを警戒し、「秀吉の誘惑にのるな」という文を戦場からしつこいくらい送る。「留守中に妻の名誉に傷がつく危険が生じたら、妻を殺し、お前も自害しろ」と家臣に命じる。関ヶ原の戦いの際、玉子が自害したにも関わらず、嫡男の妻が生き延びたことに激怒。離縁しろと迫る。離縁を拒否した息子を廃嫡する。

忠興さん、やりたい放題です。

ふたりが新婚時代を過ごした勝龍寺城跡

今回ご紹介した逸話のなかには後世の創作が含まれるかもしれません。創作ではないにしても、玉子への愛情ゆえではなく、一大名としての利害や誇りに基づいた行動だった可能性もあります。

しかし、忠興の「正室」は、生涯に玉子ただひとりだけでした。忠興は多くの側室を持ちながらも、玉子を喪ったからといって継室を迎えることはなかったのです。忠興の行動の理由が何であったにせよ、「玉子にこだわり続けた」というのが事実だと思えます。

とはいえ、いくら愛していても、嫉妬や束縛が過ぎて相手の気持ちが離れていくのは、今の時代にも通じることです。現代を生きる皆さんは、くれぐれもご注意を。