「日本は、自由貿易に関して必要以上に悲観的になったり、深刻に考え過ぎているのかもしれません」と語る金惠京氏(撮影/細野晋司)

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賛否両論が吹き荒れたTPP(環太平洋パートナーシップ協定)だったが、アメリカの離脱で頓挫(とんざ)…と思っていたら、今度は日米FTA(二国間自由貿易協定)の締結に向かいそうだ。

お隣の韓国はアメリカとのFTAを2007年に締結、2012年から発効している。日本では現在、「日米FTAによってアメリカの経済植民地にされるのでは!?」といった不安も聞かれるが、発効から5年を経た韓国の現状はどうなのか?

「週プレ外国人記者クラブ」第92回は、韓国・ソウル出身の国際法学者で、様々なメディアで活躍する金惠京(キム・ヘギョン)氏に話を聞いた――。

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─「アメリカファースト」を掲げるトランプ政権は日米FTAの交渉で、TPPよりもさらに自国に有利なものを要求してくるはずだと警戒する声もあります。韓国でも、米韓FTAの締結に向けては賛否両論があったのではないでしょうか?

 日本ではアメリカとのFTAにより、例えば農業分野で「アメリカ産農産物が関税なしで輸入されることによって、自国の農業が壊滅の危機に瀕(ひん)する可能性がある」といった声がありますが、韓国でも当初、同様の否定的な予測がありました。医療や保険の分野でも、アメリカ型のビジネス・モデルが参入してくることで、韓国国内の医療費や保険料が大幅に引き上げられるのではないかという反対意見がありましたが、現状ではそれほど大きな変化は起きていません。

一方、推進派の意見は「工業製品の輸出が韓国経済の命綱。巨大なマーケットを持つアメリカへの輸出で関税が撤廃されることは歓迎すべき」というものでした。特に自動車産業については効果的なものであり、10〜15年というスパンで見れば、全体で黒字になると予想されていました。

―では実際、米韓FTAの成果として、具体的にどれほどの経済効果があったのですか?

 実は、現時点まで両国から公式の数字は発表されていません。今年8月の二国間交渉で韓国側は「FTAの経済効果を公表すべき」と主張したのですが、アメリカはこれを渋り、次回の交渉に持ち越しとなりました。ご存知のようにトランプ米大統領は自由貿易に対して否定的で、韓米FTAの構造を変えたいとも思っています。大統領選でも自由貿易の悪影響を大袈裟な数字を挙げながら訴えていたので、具体的な経済効果が公表されることは不都合なのかもしれません。

経済上の変化を見てみると、2015年度のアメリカ市場における韓国製品の占有率は3.2%を記録していて、これは2001年以降で最高の数値です。対米輸出に関しては、FTAが韓国にとって損であったとは言えないと思います。

また、2015年までの5年間でアメリカ・韓国間の財貨・サービス貿易は約1.2倍に増えています。投資の分野ではアメリカの対韓投資より韓国の対米投資のほうが多く、サービス貿易ではアメリカのほうが黒字を得ており、互恵性も向上しています。各種の数値は劇的ではないにしろ、相互に上向いています。このように当初、予想されていたよりも大きな変化や問題の発生は見られなかったと思います。

韓国にとってFTAの推進は金大中政権期から国家全体の方針となり、各国と協定の締結を行なってきました。アメリカとのFTAもその中のひとつであり、現在では両国にとって一定の価値のあるものと評価され、韓米関係を下支えするために必要だと捉(とら)えられています。

トランプ大統領は感情的かつ過剰な発言の中で、韓国とのFTAの撤廃という話まで持ち出していましたが、周囲の説得もあり、最近ではだいぶトーンを下げているようです。そして現在は韓国国内でも、かつてFTAを否定的に捉えていた層ですら、トランプ大統領の「FTA破棄」の言説に対して懸念を示しています。

─しかし、一方でこんなデメリットもあります。米韓FTAの発効後に同協定に盛り込まれた「ISDS(投資家対国家間の紛争解決)条項」を楯に、米系私募ファンドのローンスター社から2015年5月に韓国政府は訴えられました。ISDS条項は、自由貿易協定によって相手国に投資した企業が進出先で不利益を被った際に保護するための条項ですが、「ポイズン(毒素)」とも呼ばれています。1997年にはNAFTA(北米自由貿易協定)によってカナダに投資した米企業が製造しているメチルマンガン加工物を有害物質として輸入を禁じる法律を作ったことで、米企業対カナダ政府の訴訟に発展。カナダ政府は1300万ドルもの和解金を払うこととなりました。

 ローンスター社が韓国政府に求めた賠償金は今の例よりもさらに高額で、46億7900万ドルというものです。もし満額で韓国政府が敗訴すれば、韓国国民ひとり当たりで約1万円の負担が生じます。ローンスター社の主張は「韓国政府の不適切な税務調査や、韓国外換銀行の株式を売却しようとした際に故意に承認を遅らせたことにより損害を被った」というものですが、韓国国内には同社に対して「国富を盗み出した強盗」といった強い批判も存在します。

同社は、破綻寸前だった韓国外換銀行を買収し、世界最大の金融グループ・HSBCに転売しようとしましたが、韓国政府が同社による株価の不正操作容疑を理由にその承認を遅らせました。これによって株式売却のタイミングを逸した同社は売却益の差損が生じたことで、最終的に得た売却益に対する不当な課税分、および売却の遅延によって生じた損害を補償するために総額46億7900万ドルを請求している…というのが経緯です。

課税に対しては、ローンスター社は「本社を置くベルギーで法人税を納めている。ベルギーと韓国の間で交わされている二重課税防止条約によって、自分たちには韓国での納税義務はない」と主張していましたが、韓国の最高裁は2016年12月に「国税庁の処分は正当」との判決を出しています。しかし、ISDS条項に基づくローンスター社対韓国政府の訴訟は国際投資紛争解決センター(ICSID)で現在も審議中で、結審までは時間を要すると見られています。

─ローンスター社のケースから見えてくるのは「国際条約は国内法よりも優先される」という事実ですね。

 そうです。日米が韓米と同様のFTAを締結すれば、ISDS条項によって米企業に日本政府が訴えられた際、日本の最高裁の判決よりも国際投資紛争解決センターでの審議による決着が優先されます。

─投資企業と国家間の紛争を国際投資紛争解決センターに委ねることは、国際法的に問題はありませんか? 世界銀行の傘下にある同センターはアメリカの影響力が強いと言われています。

 国際法的には、1964年に発効した「国家と他の国家の国民との間の投資紛争の解決に関する条約」に準拠しているか否かが基準になります。同条約では、第1条で国際投資紛争解決センターの設置を定めていますので問題はありません。ただし、ご指摘のように国際投資紛争解決センターでアメリカの影響力が強いのは周知のことで、2010年末までに行なわれた「投資家と国家の紛争解決手続き」に関する統計を見ると、国の勝訴は20.2%、投資家の勝訴は15.1%でしたが、アメリカの投資家はほとんど負けていません。

これはアメリカが世界金融の中心であり、かつ訴訟社会で同種の裁判に長(た)けていること、そして世銀の総裁は70年以上、常にアメリカ人が務めているように、同国の影響力が強い組織であること等が影響していると考えられます。

─「自由貿易はグローバル企業に利するもの。一般国民は、むしろ負担を強いられる」ということも、よく聞かれる主張です。アメリカとのFTA発効後の韓国における経済効果も、確かにアメリカでの韓国製品占有率が21世紀最高を記録するなど、サムスンなどの財閥企業にとっては有利に働いたといえるかもしれません。しかし、韓国国民の多くはその経済効果を実感できていないのでは?

 一部の財閥企業が輸出によって利益を伸ばしたというのは事実でしょう。また、一般の国民がアメリカとのFTA発効による経済効果を実感できていないというのも間違ってはいないと思います。しかし、同じような経済効果のギャップは「好景気が長期化し、企業収益が好調なのにもかかわらず、庶民の生活は一向に上向かない」という言葉がよく聞かれる日本にも共通する問題です。つまり、ご指摘のような問題の本質は、FTAの功罪ではなく、日本や韓国が抱える経済構造にあるのではないでしょうか。

─では、日本はどうするべきか? 日本より約10年先駆けてアメリカとの間で関税撤廃の関係を築いてきた韓国からの意見を聞かせてください。

 先ほどお話しさせていただいたように、韓国でもアメリカとのFTA締結に向けた議論では「自国の農業に与える打撃」が取沙汰されました。この点は日本と同じですが、日本と韓国では農業界の“声の大きさ”が大きく異なります。日本では農業関係者の主張が政治に与える影響は韓国に比べて大変大きいのです。このことがTPPやFTAに関する議論でネガティブな声を増大させている可能性があります。

日本への助言を挙げるとすれば、韓国では「当初の悲観的な予測ほど対米および対EUのFTAは大きな影響をもたらさなかった」ということです。日本は自由貿易に関して必要以上に悲観的になったり、深刻に考え過ぎているのかもしれません。ただし、日本と韓国の国内市場規模の差は忘れるべきではないでしょう。両国の人口の差は約2.4倍で、そこに購買力を加味したマーケット・パワーを勘案すれば、その差はより大きくなります。

だからこそ韓国は巨大なマーケットを持つアメリカとのFTA締結に際して「韓国経済は輸出が命綱」と考えたのです。自由貿易協定はフェアな条約内容であれば、輸出産業を持ち、市場が小規模の国に有利に働くのが原則です。アメリカとのFTAによって韓国経済が得た利益が、経済規模の大きい日本にも当てはまるものではないので、日本政府には総合的な判断が求められると思います。

(取材・文/田中茂朗)

●金惠京(キム・ヘギョン)

国際法学者。韓国・ソウル出身。高校卒業後、日本に留学。明治大学卒業後、早稲田大学大学院アジア太平洋研究科で博士号を取得。ジョージ・ワシントン大学総合科学部専任講師、ハワイ大学韓国研究センター客員教授、明治大学法学部助教を経て、2015年から日本大学総合科学研究所准教授。著書に『涙と花札−韓流と日流のあいだで』(新潮社)『柔らかな海峡 日本・韓国 和解への道』(集英社インターナショナル)、『無差別テロ 国際社会はどう対処すればよいか』(岩波現代全書)などがある