結婚したら、寿退社♡

一昔前まで、それは女性の人生における最初の小さなゴールだった。

家庭に入り、料理の腕を磨き、夫の帰りを待つ。

だが、2017年の東京で「専業主婦」は、本当に憧れるべき存在だろうか?

結婚したら、母親と同じように専業主婦になることに疑いを持っていなかった志穂

だが、家事・育児をまったく手伝わない夫・康介に不満を募らせていた。

自立のため復職し、夫との仲も修復しかけたように見えたが、思わぬライバルがあらわれる。




新しい自分の居場所


「志穂ちゃん、ランチ行こっか。」

目の前のPCと格闘していた時、社長から肩越しに声をかけられた。

聖羅に紹介してもらったこの職場で、週に3日だけ働く生活に志穂はようやく慣れてきた。

だが、ずっとママ友から「ひなちゃんママ」と呼ばれ、歳の近い男性は夫としか接点がなかった志穂にとって、30歳の若い社長から「志穂ちゃん」と呼ばれることには未だに慣れない。

この職場は平均年齢が20代後半と若く、皆大学のサークルのようなノリで仕事をしている。

互いをあだ名で呼び合い、ハードな業務をこなしながらも友達のようなのだ。

女性陣も既婚で子持ちの志穂に興味津々な様子で、「志穂ちゃん」と人懐っこく話しかけてくれる。

そんな職場に、志穂は「新しい自分の居場所」を見つけたような気がした。

ここでは自分は「ひなちゃんママ」でも「誰かの妻」でもない。皆が自分を、誰かの付属品ではない自分自身を認めてくれているのだ。

それが志穂には、たまらなく嬉しかった。

夫の庇護のもとで、例えようのないほど可愛い自分の娘と暮らしていても満たされない溝が埋まっていくのを感じたのだ。


居場所を見つけて喜ぶ志穂


若手社長からの提案


「ねぇ志穂ちゃんさ、出勤日数増やしてみるつもりない?」

今日は、ランチミーティングと言って、社長に『トラットリア バッボ』へ連れてきてもらった。




「志穂ちゃん、すごい仕事できると思うんだ。篠崎ちゃんとかも言ってたけど。だから、志穂ちゃんさえ良かったら、これから色々任せてみたいと思って。」

いきなりの提案に面食らったが、こうなることを志穂はなんとはなしに予感していた。

今、社長の渡辺率いる会社の勢いは留まるところを知らず、どんどん新しい人間が入ってくる。

猫の手も借りたい状況とはよく言ったもので、とにかく人手が足りないのだ。

だから自分のような専業主婦でも、週3という条件でも雇ってくれたのかもしれない。

自分に仕事を振ってくれる”篠崎ちゃん”というのは27歳のキラキラした女子だが、肩書きは「執行役員」で、よく自分の仕事ぶりを褒めてくれる。

そして、目の前の社長はまだ30歳だ。

自分よりたった1つしか違わないのに、何十人もの雇用を生み出し、時代の流れを作っている目の前の男にそう言われ、志穂は気持ちがぐらついた。

ひなはどうしようかという想いがまず、過る。

だが、自分が家庭に閉じこもってばかりの時には感じられなかった充実感は、すべてこの職場からもたらされているのだ。

今はたったの週に3日しか働いていないため、志穂の稼ぎもすべて幼児教室代に消えてしまっているが、もしここでフルタイムで働けば、しっかりとした固定収入と、やりがいのある仕事まで同時に得ることができる。

そうすれば、康介の同僚の女のような、くだらない出来事に心を振り回されることもないだろう。

ただー。

志穂は、この会社で働く若者たちにはないものを背負っている。

そのために、返事を即答できぬまま、社長とのランチミーティングを終えたのであった。


本当に大切なもの


予想通りの大反対


「え?フルタイムで?…ひなはどうすんの。」

ほろ酔い気分で帰宅した康介は、顔をしかめながら言った。もう20時半を過ぎているというのに、無理に起こされたひなはご機嫌で康介の膝に座っている。

ひなを抱きかかえながら康介は続けた。

「今だって週3で、ひなも泣いたり辛い思いしてるんだろ?これ以上は可哀想だと思うけど。」

ーじゃあ、あなたが仕事を週3にしてひなをその間見てくれればいいじゃない。

とは、もちろん言えない。

ーじゃ、世の中のフルタイムで働くお母さんたちに向かって同じセリフ言ってみれば。

というセリフも、飲み込んだ。

志穂がフルタイムになったところで稼げる額も、企業の安定性も規模も、康介のそれには遠く及ばない。それに、自分の方が「世帯主」となって家族を養う覚悟までを持っているわけではなかった。

しかも、確かに今でも育児と仕事の両立にようやく「慣れた」程度なのだ。

中途半端な気持ちでフルタイムの仕事がしたい、やりがいのある仕事をしたいと願っているわけではないが、今以上の仕事の負担を耐えられるかどうかは、自分自身でも疑問が残る。




ただ子供がいるだけで、たった一度、仕事を辞めてしまっただけで、「もう一度働きたい」と願っても、世間はなかなか厳しい。

結婚が決まった時、浮かれて寿退社したことをこんなに後悔する日がくるなんて、思いもしなかった。

結婚すれば、毎日が幸せで満たされると思っていた。それこそが、女の幸せなのだと信じていた。

だが、夢にまで見て手に入れた結婚生活は、いざ始まってみると日に日に色褪せていくばかりだったのだ。

結婚生活は、安心を得る代わりに刺激を失う。そのことに気づいた時に、志穂はようやく知った。

自分は「安心」だけで満足できる女ではないのだと。

家庭での役割と、社会での役割。その両方を欲しがる自分は、欲張りなのだろうか。

ーでも、フルタイムで働いてみたい・・・。

目の前で笑っている夫とひなを見ながら、一番言いたかった言葉を、志穂はぐっと飲み込んだ。

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志穂はフルタイムの仕事を引き受けるのか。康介を狙う女の次の動きは?