柏木陽介/1987年12月15日生まれ、兵庫県出身。5シーズン在籍した広島から浦和へ加 入して7年目の昨季から「背番号10」を身に纏うなど、今やチームの中心として欠かせない存在だ。写真:徳原隆元

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 なぜ、そうなったのか。理由は定かではないけれど、ピッチの上では、時に論理では説明のつかないことが起きる。
 
 おそらく偶然なのだろうが、必然としか思えないような……。
 
 柏木陽介にとって、あの日に生まれたゴールは、そうした類のものだった。
 
 浦和レッズがJ1残留を懸けて戦っていた2011年11月26日のアビスパ福岡戦。敵地に乗り込んだ浦和が先制されて迎えた前半終了間際。クリアボールを拾った柏木がペナルティエリアに入ったところで左足を振り抜く。
 
 インフロントで捉えたボールは、ゴール右外に逸れるように思われた……が、DFに当たって方向が大きく変わり、ゴール左隅に吸い込まれていったのだ。
 
 試合後、柏木は「浦和に来てからのベストゴール」と胸を張った。4か月前のヴァンフォーレ甲府戦で、胸のすくような美しいループシュートを決めていたにもかかわらず、この不格好なゴールをベストと言い切ったのである。
 
 柏木が一点を見つめて、振り返る。
 
「今でも忘れられない。あんなに枠から外れたシュートが入るなんて。でも、自分が浦和をJ1に残したい、何かを起こしたいと思って打った。いろんな想いが乗っかって入ったとしか思えない。普通に考えたらベストじゃないけど、やっぱりベストゴールやったと思う」
 
 この同点ゴールで勢いづいた浦和は後半、PKを決めて逆転に成功する。最終節を残して、なんとか残留を確かなものとするのだ。
 
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 値千金の同点ゴールが生まれる1年10か月前、柏木は初めて赤のユニホームに袖を通した。
 
 高校時代から世話になったサンフレッチェ広島を離れるのは、簡単な決断ではなかったが、新しい環境でチャレンジしたい、強豪クラブで自分を高めたい、という想いが最後は勝った。
 
「浦和っていうのが大きかった。ビッグクラブからのオファーは誰もがもらえるわけじゃないし、あれだけ大勢のお客さんの前でプレーできたら幸せだろうな、優勝できたら最高だろうなって。それにミシャも、行ってこいと」
 
 当時、広島を率いていたのは、のちに浦和の監督となる「ミシャ」こと、ミハイロ・ペトロヴィッチだった。柏木が新人だった頃、レギュラーに抜擢した恩師は「ビッグクラブに必要とされるのは素晴らしいこと。浦和なら行ってこい」と背中を押し、「私はいつでも陽介の監督であり、親だ」と言って、送り出してくれたのだった。
 柏木が加入した10年は、フォルカー・フィンケ体制の2年目。ポゼッションに軸足を置き、攻撃を組み立てるスタイルに取り組んでいる最中だった。
 
 堅い守備と速攻を武器にしていたチームが、いわば真逆のスタイルを習得するわけだから、それ相応の時間と労力が必要になる。この頃、フィンケのスタイルは、まだ浸透していなかった。
 
 だが、それ以上に柏木が気になったのが、選手間に横たわる溝だった。
 
「来てみたら意外とバラバラというか、ロッカールームもすごい静かで……」
 
 指揮官はスタイルをチームに植え付けるうえで、山田直輝や原口元気といった技術に優れたアカデミー出身の10代を重用し、世代交代を推し進めていた。
 
 急激な若返りが図られたため、ベテランと若手のコミュニケーションがうまく取れていなかったのだ。
 
「僕もまだ22歳やったけど、20代半ばの選手が少なかったから、自分がなんとかしたいと思って。みんなに声をかけて、食事会や誕生日会をやりましょうって」
 
 チームの雰囲気は改善された。
 
 選手同士で話し合う機会も増えた。