豪栄道は呆然と立ち尽くしていた。大相撲秋場所の千秋楽、日馬富士との優勝決定戦で一気に寄り切られた。


優勝決定戦で日馬富士(右)に敗れた豪栄道(左)

 3横綱が不在となった秋場所は、11日目まで1敗を守った大関・豪栄道が、1年ぶり2度目の賜杯を手にすると誰もが信じていた。しかし、12日目、13日目と、まさかの連敗。なんとか14日目には白星を手にしたが、千秋楽では星ひとつリードしていた横綱・日馬富士に本割で敗れ、続く決定戦でも完敗した。まさに天国から地獄。悪夢のような逆転負けに、豪栄道は「いつか、これがあったからよかったと言える相撲人生にしたい」と言葉を絞り出すのがやっとだった。

 秋場所の賜杯を逃しただけでなく、優勝した日馬富士に準じる成績ながら、昇進を預かる審判部の二所ノ関部長(元大関若嶋津)からは、「来場所は綱取りの場所にはならない」との見解を示された。豪栄道は、賜杯と綱取りのチャンスを一気に失ってしまったのだ。

 屈辱にまみれた秋場所。豪栄道の15日間の戦いは、失うものばかりだったのだろうか──。そこに、「そんなことはない」と待ったをかけたのが、元大関・霧島の陸奥親方だ。今回の経験は、豪栄道にとってかけがえのないものになると親方は力説する。

「目の前に優勝が見えて、本人にしてみれば『よし、いける』という気持ちになったと思う。それが、終わってみれば優勝を逃してしまった。これほど貴重な経験は、やりたくてもできるものではない。だからこそ、これからの豪栄道に必ず生きるはずだ」

 陸奥親方がこう述べるのは、自身の経験があるからだろう。

 霧島は平成3年の初場所に、大関に昇進して5場所目で悲願の初優勝を飾った。ところが、綱取り場所となった春場所は5勝10敗と惨敗。「優勝した時は無我夢中で土俵に上がっていた。だけど、綱取りと騒がれた翌場所は、勝たなきゃいけない、と硬くなってしまった。心の状態がまったく違っていた」と振り返る。

 その翌年、大きな重圧がのしかかる時がやってくる。平成4年の夏場所を前に”ひとり横綱”だった北勝海(現八角理事長)が引退し、横綱不在となってしまったのだ。夏場所の番付で最高位は、霧島と小錦の両大関。今では3横綱がモンゴル出身であるように、外国人力士が上位を占めることに違和感はなくなったが、当時は違う。ファン、そして相撲協会の期待は、ハワイ出身の小錦ではなく、日本出身力士として最高位だった霧島に集中した。

「もう毎日毎日、勝たなきゃいけない。それだけだった。しかし、そう思うほど勝てなくなるものだ」

 勝てない土俵が続いたところにケガも重なり、優勝はおろか、綱取りへの挑戦もできないまま、霧島はその年の九州場所で関脇へ転落してしまう。結局、横綱不在という番付の空白を埋めたのは、平成5年の初場所で優勝し、外国出身力士として初の横綱昇進を決めた曙だった。

 陥落後、霧島は再び大関に復帰することはなかった。「勝たなきゃいけない」という重圧に苦しんだ日々を経験した陸奥親方だからこそ、今場所の豪栄道の気持ちが「痛いほどわかった」と明かす。

「あれだけ連勝して優勝争いのトップに立った。そこで、この一番に勝たなきゃいけないという気持ちが出たんだろう。そう思いすぎているから、逆に体が安易な引きに頼ってしまった。つまり、心と体がバラバラになってしまった」

 そう指摘する12日目の松鳳山戦。それまで、ほとんど見せていなかった無駄な引き技を出して敗れ、続く13日目の貴景勝戦も同じ展開で崩れてしまった。

 陸奥親方は「勝たなきゃいけないと思った時こそ、自分の武器を相手にぶつけようと、それだけを思うことが大切だ」と語る。低く鋭い立ち合いで左まわしを引き、一気に押し出すことが、本来の豪栄道が持つ相撲。「それに徹することでしか、勝つことはできない」と強調し、次のようにエールを送る。

「相手にとって、それが一番の脅威だからね。私は重圧がかかった時に、それに徹することができなかったけど、豪栄道ならできると思う。あの立ち合いは、まだまだ力を持っている証拠ですよ」

 今場所に味わった屈辱をしっかりと受け止め、豪栄道がどんな時でも「自分の相撲に徹する」ことができるようになるなら、失った賜杯以上に貴重なものを手にしたことになるだろう。千秋楽の支度部屋で漏らした、「いつか、これがあったからよかったと言える相撲人生にしたい」という言葉は、惨敗から何かを得ようとする決意の表れだ。

 場所中に出版した自伝「すもう道まっしぐら!」(集英社みらい文庫)で、豪栄道はこう綴っている。 

「いま、ぼくが毎日考えていることは『悔いのないすもうを取ろう』ということです。”勝負は時の運”という言葉があるように、土俵での戦いは、勝つときもあれば、負けるときもあります。大切なのは結果にいたるまでの過程だと思います」

 豪栄道の”結果”はまだ先だ。屈辱の土俵を、後悔ではなく糧にするための戦いが始まる。

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