東京の新宿より西側を転々としながら、30年以上暮らしてきた。

 マンガ家だから都心のオフィス街に通勤することはなく、サラリーマンの街といわれる地域とも無縁だった。なので仕事帰りにガード下で同僚と一杯やる、というような風景には、ずっと軽いあこがれがある。

 40代なかばぐらいから、たまに銀座、有楽町、新橋あたりを散歩するようになった。

 妻の伊藤が友人たちと歌舞伎を観ている間、終わるのを今はもうない三原橋地下街の飲み屋で待つ、みたいなこともした。

 老舗飲食店に食べにいってみたり、あのエリアのかろうじて残っている「昭和の匂い」を嗅ぎにいくのは、中年の楽しいお遊びだ。

 最近、なんとなく足が向いてしまうのが、1966年竣工の「新橋駅前ビル1号館」である。散歩するのは昼前が多いので、地下にずらりと並ぶ飲み屋はほとんどまだ閉まっている。ランチをやっている店、喫茶店、立ち食いそば店が開いている程度。

 そのビルのトイレが、チップ制なのだ。

 タイル壁にコイン入れが設置され、「チップ制で『清潔』が保たれています」と書かれている。

 硬貨が入るすきましかなく、お札を入れたかったら六つ折りぐらいにする必要がある。「1000円とはいいませんが、10円でも100円でも、お気持ちをお願いします」というようなことなのだろう。

 1階に上がる。なつかしい雰囲気の喫茶店「ポンヌフ」があり、いつかここでスパゲッティナポリタンを食べてみたいと思っているが、その日も開店前だった。

 その並びの文房具店があいていたので、何かほしいものなかったっけ、と思って入ってみる。

 とくになかったが、めだつところに陳列されていた「ネコ磁石」を買った。410円。黒いネコの形をした、冷蔵庫やホワイトボードなどにはりつける磁石だ。しっぽがフックになっている。

 かわいい磁石だが、やっぱり、せっかく昭和臭ぷんぷんの新橋駅前ビルでの買いものだもの、一度チップ制トイレを使ってみたい。

 チップなどのサービス料金も、「価値あるものに代金を支払う」という意味で、立派な買いものの一形態だろう。が、その時点では必要に迫られるものなし。

 しょうがないので、水筒につめてきた茶を飲みつつ、近所を散歩する。小一時間も歩くとなんとなくイケそうになってきたので、新橋駅前ビルに戻った。

 バカか、とも思うが、しょうがないのだった。夜に飲みにくる機会はなかなかないので、入れるときに入っておかなければ。

 10円玉をチップ入れに投入し(10円かい)小用をすませた。前夜の酔っ払いたちの気配もなく、きれいに清掃されていて、洗剤かなにかのいい匂いがかすかにただよっている。

 チップを費用の一部として、誠実に清掃業務をおこなっている人の存在を感じた。

よしだせんしゃ
マンガ家 1963年生まれ 岩手県出身 『伝染るんです。』『ぷりぷり県』『まんが親』『おかゆネコ』など著作多数。「ビッグコミックオリジナル」で『出かけ親』、「ビッグコミックスピリッツ」にて『忍風! 肉とめし』を連載中。妻はマンガ家・伊藤理佐さん

※本誌連載では、毎週Smart FLASH未公開のイラストも掲載 
(週刊FLASH 2017年10月3日号)