巨額の借金を抱え、先代が癌で亡くなるという逆境の中、弱冠36歳で250年の歴史を持つ老舗菓子店の3代目社長になった久米一社長は、銘菓「雷おこし」をどのようによみがえらせたのか(筆者撮影)

風雷神門、通称・「雷門」。言わずと知れた浅草のシンボルだ。週末ともなれば、国内外からやってきた観光客でごった返す。そして、この雷門のすぐ隣で販売されているお菓子が「常盤堂 雷おこし」だ。東京でしか買えないという限定感もあり、観光客を中心に根強い人気を誇る浅草土産の定番となっている。


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このお菓子の歴史はかなり古い。約1000年前に発刊された百科事典『倭名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』の中に、「米巨米女(おこしごめ)」という菓子の名が出てきて、「コメに蜜を加えて煎(い)って作る」ことが記されている。

各地で「おこし」が親しまれる中で、雷門から名前を取った「雷おこし」がいつから生まれたのかは不明だが、江戸から明治時代の歴史を記す『浅草寺誌』によると、1795年(寛政7年)には浅草で雷おこしが売られていたそうだ。家を“おこす”、名を“起こす”という縁起のよさもあり、当時から浅草寺での観音様参詣のお土産として人気を博していた。

常盤堂も、約250年前の1816年に創業。定番の土産菓子店とあって多くの競合がひしめく中、人気店として生き残っていく。明治中ごろには、現在も本店を構える雷門脇の好立地で商売をしていることが判明している。

松下幸之助とともに「雷門」を再建

こうして暖簾(のれん)を守り続けてきた常盤堂だが、戦災には大きな打撃を受けた。工場が被災、焼失したことで事業継続を断念。1946年(昭和21年)には、懇意にしていた取引業者である穂刈家に常盤堂の暖簾が引き継がれている。


常盤堂は、風神・雷神像の補修・彩色を支援した(写真:常盤堂提供)

株式会社常盤堂雷おこし本舗として再スタートを切ることができたのは、1950年のこと。1954年には、雷門脇に本店を再建。鉄筋和風造りの壮麗な建築は、当時大評判となった。

さらに、「雷おこし」の名前の由来でもある雷門の再建にも一役買った。雷門は、これまでの歴史の中で何度も焼失しては再建されてきたが、1865年(慶応元年)に焼失して以来、約95年もの間は本格的な再建が行われずにいたのだ。


雷門の落慶式では、常盤堂の初代社長の姿が見える(前列左端)(写真:常盤堂提供)

それを、1960年(昭和35年)に再建したのが松下電器(現・パナソニック)の松下幸之助氏だ。そのとき、常盤堂の穂刈家初代社長・恒一氏は、風神・雷神の補修・彩色を支援している。雷門落慶の記録写真には、その姿が映されている。

こうして雷門が復活し、常盤堂にも追い風が吹く中、バブル期に穂刈家2代目の幸雄氏に代替わりした常盤堂は、拡大路線で攻めの経営を展開していく。生産拠点を増やし、販売網も全国に広げる中で知名度の向上に努めた。生産工場は3拠点。販売拠点は札幌、東京、大阪、福岡に有し、1991年9月期には、年間売上高約50億600万円を計上している。

が、この攻めの経営が仇になった。バブル期の常盤堂は不動産投資にのめり込み、バブル崩壊後に大損失を抱えていたのだ。不動産を買い、その不動産を担保に借金をして、また新たな不動産を買う。当時としては決して珍しいことではなかったが、これにより、1990年代前半には金利約6%の借入金が約75億円に膨れ上がっていた。

巨額の借金、2代目の死

さらに不運は続く。その後、1996年に2代目の幸雄氏が胆管がんで死去し、息子の久米一氏(当時36歳)が3代目社長に就任。巨額の借金を背負っただけでなく、このピンチを3代目の新人社長が背負うことになった。会社存続の危機である。

しかし、今振り返ってみれば結果としてこの大ピンチが会社を救った。一般的に、成長戦略を実現した社長は、リストラなどの縮小路線を進めるべき場面でも、過去の成功体験にとらわれ、無理な事業拡大を推し進めて会社を倒産に導くケースがある。また、自らが作り上げた事業、出店拠点、取得不動産に対する思い入れが強すぎてリストラが進まないというのは心情的にうなずける。

この点において、3代目久米一新社長は過去にとらわれることなく大ナタを振るった。まず、「浅草土産が全国どこでも購入可能なのはおかしい」と、赤字拠点となっていた札幌、大阪の営業拠点から撤退。時期をみて福岡の拠点も閉めた。閉店に伴う販売数の減少を見込んで、生産拠点も1カ所に集約した。こうしたリストラを実行すれば、従業員のクビを切らなければならないのが苦しいところ。ただ、会社が潰れたら従業員全員が路頭に迷い、常盤堂の暖簾が途絶えるおそれもある。久米一社長は心を痛めながらも、縮小路線を押し進めた。

雷おこしの製法自体も抜本的に改革した。従来の雷おこしは、米100%のポン菓子に水あめをぜいたくに絡めて製造していたが、これだと固い食感になってしまい、消費者には「雷おこし=堅い」というイメージが定着していた。それでは時代に合わないと直感。ポン菓子の部分を「米50%、小麦25%、でんぷん粉25%」の割合でつくったパフで代用し、水あめはなるべく薄くコーティングするように切り替えた。

この改良によって、従来よりもサクッとした食感で、幅広い年代にとって食べやすくなった。番頭からは「伝統銘菓をスナック菓子にする気か!」と反感を買ったが、最終的には、久米一氏の意見を押し通すことができ、結果的には売り上げに貢献した。


3代目の久米一社長は、老舗のしがらみに縛られない改革を断行し、会社を立て直した(写真:常盤堂提供)

久米一社長は、社長就任当初のことを振り返ってこう語る。「昔は包装紙のデザインひとつ変えさせてもらえなかった。親不孝な発言ですが、早期に父親を亡くしたことで、実行できた経営改革がたくさんありました」。

その結果、売上高は約20億円まで縮小したが、その分借金も30億円台まで返済することができた。

父の病死を乗り越え、久米一社長がこうしてスムーズに事業継承できたきっかけは、2代目・幸雄氏の担当医からの一言にあった。担当医は、1996年夏に幸雄氏に対し余命半年を宣告するにあたり、息子の久米一氏に相談。その際に「いずれ社長になるのだろう。であれば、早急に覚悟を決めるべきだ。この半年でちゃんと事業を引き継いで会社を守りなさい」との言葉を添えたという。

この助言もあり、常盤堂の事業承継は計画的に行われた。通常、社長交代する際は、先代が会長職となり残留するケースが多く、引き継ぎがあいまいになることがある。しかし、常盤堂は2代目の余命が限られていたからこそ、迅速に事業承継が進んだのだ。

財務的にも、足元では安定化を図っている。老舗企業といえば、長期間の利益蓄積により自己資本比率が高いという印象がある。帝国データバンクの資料でも、創業から100年以上経過している企業の自己資本比率は平均約27%となっており、全体平均の約25%より約2ポイント高い水準となっている。しかし、常盤堂は前述のとおり、バブル崩壊後の痛手があるため、自己資本比率は決して高い水準ではない(数字は非公表)。全体平均と比べても、若干下回る水準だ。それでも、今は本業で利益を生み、営業利益率は4%超。業界平均約2.6%と比べると、これが高い水準であることがわかる。

浅草の街と「運命共同体」

どの企業においても、長い活動期間の中で、財務が毀損する時期はある。仕方のないことだ。ただし老舗と呼ばれる企業は、こうしたピンチを挽回する力を持っているのだ。

改革、改善、革新――。「老舗として生き残るには変化し続けることが必要」ということは、よくいわれる。常盤堂も、数々の改革を経てこそ今があるのは間違いない。しかし、何でもかんでも変えてしまうのはいかがなものか。何があろうと根強く継承していかなければならないこともある。

常盤堂にとってのそれは、「浅草とともに生きていくこと」である。これは代々受け継がれている信条で、いわば家訓のようなものだ。浅草の商店を支えているのは、生まれも住まいも浅草の地元商人たち。この街の発展が、個々の利益につながり、衰退が損失につながる。こうした運命共同体の中で、認められた存在であるからこそ、常盤堂の看板は輝くのだ。

久米一社長は、週末になると本店で雷おこしの実演販売に立ち、浅草を歩けば多くの歩行者から声を掛けられる人気者。天国で見守る先代社長らも、浅草にどっぷり染まった社長の姿をみれば、数々の経営改革に文句は言わないだろう。老舗企業は、こうした家訓により暖簾を保ち、数値だけでは計り知れない不思議な魅力をまとっている。