港区在住。遊びつくした男が、40歳で結婚を決意。

妻には、15歳年下で、世間知らずな箱入り娘を選んだ。なにも知らない彼女を「一流の女性」に育てたい。そんな願望もあった。

誰もが羨むリッチで幸せな結婚生活を送り、夫婦関係もうまくいっていたはず…だったのに。

世間を知り尽くして結婚した男と、世間を知らずに結婚してしまった女。

これは港区で実際に起こった、「立場逆転離婚」の物語。

利奈(りな)は理由も言わずに突然、夫・昌宏(まさひろ)に離婚を切り出した。離婚したくない昌宏には話し合いを求められるが、利奈は弁護士を通しての話し合いを要求し、昌宏には自宅を出てホテル暮らしをしてもらうことになった。その頃妻は…




もしも「あの女性」が私の前に現れなかったら、こんな日はこなかったのだろうか?

私は、元麻布の3LDKのマンションで、出て行くための荷物をまとめながらそんなことを考えていた。

片づけ始めて改めて気が付いた。この家に、私が選んだものはほとんどない。

4年間暮らした家なのに、寂しいという気持ちが全く湧かないことに、我ながら驚く。

夫…あの人に買ってもらったものは、何一つ持っていくつもりは無い。だから、運び出す荷物は、ほんの少しの衣服とアクセサリーだけ。

身軽なものだった。

ホテル暮らしをすると言った夫は、律儀に戻ってこない。

一度も返信していないのに毎日LINEはくるが、食事は食べた?今何してる?など、当たり障りのないものばかり。

とても離婚の危機にある夫婦のやりとりとは思えない。

まあ、今更、驚きもしないけど…。

大体、本気で話し合いたい、と言うのなら、どんなに私が嫌がろうと強引に帰ってくればいいのに。どうせまた「きみの気持ちを尊重している」とでも言うのだろう。

彼の言いそうな台詞を想像しただけで、白けた気持ちになり、溜息がこぼれた。

あの人は、面倒を嫌う人だ。

喧嘩をして、あがいて、ここに居座るような「みっともない」ことはしない。

私のために、感情をむき出しにすることなんて、事実この4年間一度も無かった。だが、あの日。

私が離婚を申し出て、家を出て行くと言った時初めて、あの人の感情が揺れる所を見た。荒ぶった声を聞いた。

あんな時におかしいけれど、彼が私の手をつかんで声を荒げたあの一瞬…

私は泣きそうになっていた。悲しかったからでも怖かったからでも、ましてや思いのほか強い力で掴まれた手首が痛かったからでもない。

嬉しかったのだ。自分が彼の理性を、初めて崩せたことが。

けれど彼の爆発は、ほんの一瞬で収まってしまった。

水の入ったグラスを持つ彼の手はまだ震えていたけれど、いつもの「落ち着いたあの人」の仮面をかぶってしまった。

もっと怒鳴り散らしてほしかった。感情をむき出しにして、問いただして欲しかった、なんて思う私はおかしいのかもしれない。

でもそんな感情を夫に対して抱くようになったのも「あの女性」に出会ってしまったから。

私の前に「あの女性」が突如現れたあの日をきっかけに、全ては始まり、変わっていった。


幸せで満たされた生活だと信じていた日々を変えた「出会い」。




それは、2年前の冬。東京に初雪が降った日のことだった。

自宅のフラワーアレンジメントを頼んでいる、夫とは古くからの付き合いの華道家にクリスマスのリースを作る教室に誘われ、広尾のアトリエに出かけた。

一人で参加することにやや不安を覚えていたが、教室に入るともみの木と松ぼっくりのせいか土の匂いがして、安心したことを覚えている。

華道家の先生に挨拶をすると、草木やリボンなど、好きな材料を選ぶように言われた。

「好きなように」が苦手な私は、先生に材料を選んでもらい、先生の指示通りに作り始めた。

「もしかして、昌宏の奥さん?」

自分の夫の名前を、女性の声で呼び捨てにされる違和感に顔を上げ、声の主と目が合った瞬間ひるんでしまった。

迫力のある、美しい人だったから。

「そうです」

そう言ったつもりだったが、自分の声が彼女に届いたかは分からない。

恐らく夫と同世代の彼女は、いかにもキャリア女性という佇まい。

黒いシルクのシャツに同じく黒のタイトスカート。肩から下げたロエベのバッグの中には、書類のファイルが見える。

低めの落ち着いた声で、彼女は言った。

「あなたのことは昌宏から聞いて、一度お会いしたいと思ってたの」

「あ、主人がいつもお世話に…」

私が、フォーマット化された「妻」としての挨拶をすると彼女は笑った。

少し低めの声が、笑い声になると妙に色っぽく感じる。口元に充てられた指先にはボルドーのネイルが輝いた。

なぜ、笑われたのか。きょとんとする私に気が付くと、彼女は言った。

「あ、ごめんなさい、想像通りの可愛い人だったから。私とひどい別れ方をした後に選んだのが、あなたなのね」

どうやら私は、夫の「元恋人」と対面しているらしかった。

だが、正しい対処の仕方など分からない。分かる人などいるのだろうか?

「私とは全く真逆のタイプね。昌宏ってわがままで大変でしょ?喜怒哀楽が激しいというか。甘えん坊のお坊ちゃま全開というか。ま、そこが可愛いくて好きだったんだけど」

感情を昂らせる夫など見たことがないし、想像もつかない。さらに言葉を失った私に彼女の口調が優しくなった。

「あ、ごめんなさい!急にびっくりしたわよね。でももしよかったら、教室が終わってからお茶でもいかない?お酒の方がいいかしら?」

「いえ…私は」

とっさに断ろうとした私に、彼女が続けた。

「今日は水曜日よね。昌宏は、社内ミーティングで遅くなる日…でしょ?じゃあ、あとで。」

茫然とする私に微笑むと、彼女は自分の席に戻っていった。

遠ざかる後ろ姿、黒いエナメルのピンヒールの裏、真っ赤なソールに目が眩む。

この日以来、私はルブタンの靴が…苦手になった。


突如現れた「夫の元恋人」が「幸せな結婚」を揺るがす。


教室が終わると、彼女に近くのカフェに連れ出された。

なぜ着いてきてしまったのだろう、と後悔したものの、強引な彼女にはお酒を断るのが精いっぱいだったのだ。

「私は、飲んじゃってもいいかしら」

彼女の言葉に私がうなずくと、彼女は赤ワインをグラスで頼んだ。

おそるおそるカフェラテを頼んだ私との対比は、ルックスの差も相まって、大人と子供、淑女と幼女のように見えていたのではないだろうか。

私だって飲めないわけじゃない。でも、いつもは夫が決めてくれるお酒を飲む。彼女の前で、知識のなさをさらけ出す勇気がなかった。

カフェラテの湯気を見つめながら自分の子供っぽさに情けなくなる。

彼女は、自己紹介がまだだった、と「坂巻藍子」と名乗った。どうやら私の名前は知っていたらしい。

「何で、私と話したい…と思ったんですか。」

ようやく、私が切り出すと

「私、最近海外勤務から帰ってきたの。それでね。」

ワイングラスのふちについた口紅を指で拭い、彼女は言った。

「私に無くて、あなたにあるものが知りたくて。昌宏がどうしてあなたと結婚したのか、単純な興味。」

単純な興味というには、あまりにも大胆な行動であるはずなのに、彼女は全く悪びれている様子がない。

その後彼女は、私たち夫婦がどうやって出会ったのか、今私がどんな生活をしているのか、など他愛もないことを私に聞いた。そして

「正直に言うわね。私は、彼に未練がある。」

さらり、と言った。




「えっ?」

思わず声がうわずってしまった私を、彼女は声に出して笑った。

馬鹿にされた、とムッとした私に、彼女はごめんねと言ったが、何に対して謝られたのかは分からなかった。

「でも安心して、不倫なんてしてないし、今のところ彼に気持ちを伝えるつもりはない。…今のところ、はね。」



この日、彼女が、フラワーアレンジメントの教室に現れたのが、偶然だったのか、それとも計算だったのか、2年がたった今も分からない。

「夫の昔の恋人」しかも「年上の魅力的な女性」の登場は、私に衝撃を与えるには十分だった。

彼女とカフェにいたのは、互いにワインとカフェラテを一杯ずつを飲み終えるまでの短い時間だったが、別れ際に彼女は私にこう言った。

「昌宏とあなたじゃ、いつか必ず辛くなると思うのよね。」

この日の彼女との出会いは、きっかけに過ぎなかったけれど。

彼女のその言葉通りの状況に、私は追い込まれていった。

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妻の思わぬ攻撃!遂に「夫婦の立場逆転」が始まる!