『わたしの本当の子どもたち (創元SF文庫)』ジョー・ウォルトン 東京創元社

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 歴史分岐SFは、素朴な機械論的時間観に基づくジャック・ウィリアムスン『航時軍団』をはじめ、さまざまなバリエーションが書かれてきた。このカテゴリーでの最高傑作は、記憶や語りと不可分であるほんらいの時間を小説構造に繰りこんだクリストファー・プリースト『双生児』だろう。たんに世界線が分岐するだけではなく、相互に干渉して、不思議な綾目が描きだされる。本書『わたしの本当の子どもたち』も記憶と不可分な時間を扱っているが、小説構造じたいは単純で、焦点となるのは「世界」ではなく、ひとりの人物の「人生」だ。知的興味や哲学的思考を喚起するより、情緒的な共感によって読まれる小説、渡邊利道さんの「解説」の表現を借りるなら「内省的な寓話」である。

 主人公の名前はパトリシア。1926年にロンドン郊外の中流家庭に生まれ、両親と兄の愛を受けて幸せな少女時代を送った。第二次大戦中に、オックスフォードに合格。在学中はトールキンから古英語を学び、カレッジのパーティでは口角泡を飛ばして議論するヴィトゲンシュタインを見かけたこともあった。学友はみな自分が有名人になると信じていたが、彼女自身はそういう野心はなかった。パトリシアが望んだのは、ひとりの人間として周囲に認められ自分の意思をもって生きること。そして、愛するひととの平凡な幸福。ああ、マーク!

 マーク・アンストンとは卒業まぎわに出逢った。ハンサムではないが、教養があって話が面白い。なによりも、パトリシアを必要としてくれている。ふたりで星を見ながら歩いたその夜、「ぼくたちは婚約しなければならない」といってくれた。素敵なマーク!

 マークはパトリシアよりも学年が下だから、彼が卒業するまで待たなければならない。パトリシアはコーンウォールの女子校で教えることになったので、遠距離恋愛だ。しかし、距離なんて問題にならない。マークは毎週欠かさず、手紙を送ってくれる。どれも思慮深く理路整然としていて、情熱があり、ロバート・ブラウニングに匹敵する名文だ。パトリシアは手紙を通じて恋心を募らせる。

 ただひとつの不安は、マークが望んでいた特別研究員になれず、どこかの学校に奉職するはめになったことだ。じゅうぶんな収入が得られない。それでも彼はパトリシアに結婚してほしいという。しかし、彼女は経済力のないマークと結婚し、家庭に入って彼の重荷になりたくはなかった。かといって、この時代(1940年代)、結婚した女性が教師を続けることは許されない。また、英文学の学位を持っている女が就ける職業など、ほかにはない。

 ここで彼女の人生が分岐する。

 マークのプロポーズに応じ、主婦となったパトリシアの人生。彼女は「トリシア」と呼ばれるようになり、四人の子どもを産み、それとは別に五人を死産した。カトリックのマークは避妊をよしとせず、そのいっぽうで性的なことに罪悪感を持っている。しだいにトリシアとマークのあいだの価値観の差は深刻になっていく。

 マークと別れ、自律した女性として生きていく決心をしたパトリシアの人生。彼女は「パット」と呼ばれ、教師のかたわらに手がけた文筆(イタリアの都市ガイド)で成功をする。レズビアンのパートナーを見つけ、精子のドナー提供によって、高齢出産でふたりの子を産む。満たされた生活。

 分岐したのは「トリシア」「パット」だけではない。歴史も変わってしまう。核戦争、テロ事件、宇宙開発、同性愛者への法対応......。

 皮肉なことに、苦悩に満ちた「トリシア」の世界線のほうがおおむね平和で成熟しており、自己実現を果たした「パット」の世界線は動乱が多く不安と危険が身近にある。

 ふたつの人生とふたつの歴史。それらは視差のようなものであり、この物語を通し、私たちの世界の差別・抑圧・不平等・国際的緊張が立体的に立ちあがる。

「トリシア」も「パット」もそれぞれの人生/世界線において年齢を重ね、2015年には「パトリシア」として介護施設に入居している。聡明だった彼女も認知症が進み、記憶がしばしば混乱する。私は「トリシア」だったの? 「パット」だったの? どちらの記憶もあり、どちらの記憶も曖昧だ。しかし、もし、選べるとしたらどちらの人生/世界が良いだろう? 人生は苦しいが穏和な世界。人生は充実しているが危険な世界。

(牧眞司)