R・スコットはS・キューブリックの意志を継ぐ 『エイリアン:コヴェナント』が描くAIの行方

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 『エイリアン:コヴェナント』は多くのエイリアン・ファンの期待に応えるだろうし、また前作『プロメテウス』にハマった「好き者」にはたまらない一品となるだろう。

 僕は『プロメテウス』が大好きである。理由はシンプルで、冒頭のシーンに圧倒されたからだ。

 「太古の昔、岩山と激流しか見当たらない惑星に降り立った異星人が、半球形の容器の黒い液体を飲むと、その体は急激に変貌し溶け、自らのDNAを惑星に拡散さた」というシーンだが、その上空には巨大なUFOが「タテ」に鎮座していた。UFOといえば、通常は横に飛ぶ。しかしその巨大なUFOは、レンズ型が上下に垂直になって空中に止まっているのである。

 「太古岩山と激流しかない惑星」の描写も見事だったが、異和感の固まりであるこのタテの巨大UFOは、前代未聞の迫力でこの物語の壮大さを予見させてくれる。とにかくスンゲえビジュアルなのである。IMAXでの鑑賞も良かった。

 このシーンを見て、監督リドリー・スコットは、同じ英国人である監督スタンリー・キューブリックを心底尊敬し、その後を追おうとしていることに気が付いた。

 そう。気がつくと今回の「植民船コヴェナント号」の船内描写も、『2001年宇宙の旅』のディスカバリー号の船内そっくりである。心なしか宇宙に浮かぶ船体の、イラストチックな描写も『2001年宇宙の旅』の宇宙ステーションっぽくて、オマージュしているかのように見えた。

 そして考えてみれば『プロメテウス』の「タテに静止するUFO」はキューブリック『2001年宇宙の旅』の「モノリス」そっくりなのである。巨大な石板であるモノリスは極めて高度なコンピュータであり、地球ではモノリスを用いてヒトザルが人類に進化させられたという筋書き。「異星人のDNAを惑星に拡散させる」ことを見守るタテ静止のUFOも、同じような役割ではないか?

 『プロメテウス』がワケわからなくて苦手!という人は多い。しかし大好きである僕も、後半の難解な会話は、かなり理解不能なのであった。そもそも『2001年宇宙の旅』自体が超難解な大ヒット作なのである。筋書きの理屈が全くわからない。しかしシーン、シーンはやたら印象的だ。「猿が投げた骨が宇宙船に変わった」ことは「人類の進化をシンボル的な映像で一瞬に描いた」とわかるし、前述モノリスは、猿や人間に影響する信号を発している、と理解はできる。宇宙船アリエス1B型が月へ向かう場面でかかるヨハン・シュトラウス2世の円舞曲『美しく青きドナウ』の優美さで、人類の知恵を結集した宇宙船の文明度の高さを体感させる。シーンそれぞれが、象徴性の塊であり、客は筋ではなく、映像を体感で頭脳に残すのである。

 というわけで『プロメテウス』はリドリー・スコットの「キューブリック派宣言」だろうし『エイリアン:コヴェナント』は、その意志を継承しているのではないか。さかのぼって考えれば第一作『エイリアン』も異形な宇宙生物の象徴的な表現においては、キューブリック的な資質があったことがうかがわれる。壮大な物語を、ストーリーではなく、まずは暗示的表現、イメージで伝えるのである。

 難解といわれる『2001年宇宙の旅』は、体感するアトラクション映画。『プロメテウス』も『エイリアン:コヴェナント』もそうである。よけいなことを考えず、何カ所かの象徴的な映像を五感で受けとめれば、後はわけのわからないやりとりもゴダール映画よろしくジっと流して見ていればよい。

 ただし『エイリアン: コヴェナント』は、より先端なビジョンについて語っている。さらに下世話なエンターテインメント性も併せ持つ。複眼的で贅沢な作品となった。

 前作からの恒例となったイントロダクション、そこでは多岐にわたる大型事業を行うウェイランドコーポレーションのトップでピーター・ウェイランドが新型のアンドロイドのテストを行う。人間に仕える男性アンドロイドの異形性が物語の前触れとして丁寧に描かれる。アンドロイドは、欧米では20年代のフリッツラングの映画『メトロポリス』から、日本では60年代の石ノ森章太郎の漫画「サイボーグ009」など、数多く描かれている。リドリーではなんといっても82年『ブレードランナー』が有名だ。新作がひかえる『ブレードランナー』だが、リドリーはこともあろうにエイリアン・シリーズにその遺伝子を分流させた。

 『ブレードランナー』はレプリカントという近未来アンドロイドが主役だが、『コヴェナント』ではさらに遠い未来においてアンドロイドはどう進化するのか? その究極形を描いている……。

 というか、実は裏テーマが「AI」なのではないか?と思えた。

 『コヴェナント』で展開する物語は、ミケランジェロの彫刻から自分で名付けた「デヴィッド」という、大変にコワいアンドロイドが主役と言っても過言ではない。そして、ウォルターという、コヴェナント号に乗り込んだ、デヴィッドにそっくりなアンドロイドが善玉として、悪のデヴィッドに対峙する。デヴィッドがあまりに創造的であったたため、その後のモデルであるウォルターはより機械らしく、創造性を持たないように改良された、という設定らしい。

 果たしてアンドロイドは人間とどう違うのか? 遺伝子が作り出す人間と、機械的に合成された知性では、全く機能が違うのではないか? そんな疑問を誰しもが持っていると思う。昨今、経済・株高への期待の主役に躍り出たAIによって、一体何がやらかされるのだろう?という恐怖にも似た疑念がある。チェスや将棋戦での活躍だけではなく、経営や運転、社会のあらゆる局面に利用され始めたAIは想像以上の成果を挙げている。それらの応用は明日の産業形態を全く変えてしまいそうだ。失業の恐れも散らつかせる現代社会最大のトピックになってしまった。

 2001年の映画『A.I.』は、実はスタンリー・キューブリック監督が長年暖めてきた企画だったという。残念なことにキューブリックが死去したため、キューブリックの遺志によってスティーヴン・スピルバーグに引き継がれたという。アメリカ人であるスピルバーグは『A.I.』を愛の物語にしあげた。それがキューブリックにとって本意だったのか僕にはわからない。AIはコンピュータやインターネットに比較にならないほど影響力も高いのだから、まずは批評的な視点で検証しなければならないと思うが。『博士の異常な愛情』(1964年)で水爆の現実を壮絶なブラックユーモアで語ったキューブリックなら、甘くなるはずがない。どんな風にAIを切っただろう? 見てみたかった……。でも僕らにはリドリー・スコットがいる。

 不思議なことに、『A.I.』の主人公のアンドロイドもデヴィッドという名前なのだ。リドリーは、『A.I.』に対するサヤあてで話を作り始めたのではないだろうか? 『コヴェナント』のデヴィッドは、愛のカケラもないイヤミな存在。冒頭のシーンからどういうところで人間に従う動作をし、どういう気配で不穏な発想を打ち出すか?が示される。その前振りは全編に生かされていく。

 それから異星に漂着し、10年もの間、たった一人で気持ちの悪い「ネオモーフ」(創造されたエイリアン生物)を作り続けたデヴィッド。アンドロイドの孤独。人間なら極限的な精神状況を経て世捨て人となっているはず。しかしアンドロイドであるデヴィッドは不気味に前向きで淡々としている。進撃をけして止めることがない人工知性のマイペースさこそが『コヴェナント』の醍醐味だ。デヴィッドの醸し出す、ただ冷酷なだけではない、ウィットに富むクールさ。それがこの作品の際立つポイント。それは理屈ではなく「体感」するしかない。

 iPhoneのsiriの何とも言えない人なつこい応答に「オヤ?」と思った人は多いだろう。例えば「siri、うるさいんだよ」「お前はいらない」とか言ってみると面白い。なかなか練られた答えが返ってくる。人間臭いなあ!と驚いた人も多いはず。

 単なるプログラミングされた受け応えでもそうなのに、将来的に自律的に判断するメカニズムが与えられたら、どんな怪物に変化していくかわからない。

 キューブリックの意志を継いでいるリドリーの考察は、そうした人工知能なるものの行方について看破しているように思える。アンドロイドがもたらす事態の描写を精細に行う。

 ラストのブラックなエンディングもヤバい。これほど絶望的な次回予告もないだろう。どうやら人工知性とエイリアン、そして神々が組んずほぐれつと人類を追い詰める、そんな新作がやってきそうだ。

 もちろん『コヴェナント』のエイリアン映画としての気持ち悪さ度も、なかなかに凄い。新手として、ミクロ描写がある。黒い胞子として舞い上がり、気付かないうちに耳の中に侵入、皮膚の下に潜り込むネオモーフだ。その気色悪さは、シリーズ中の新機軸である。極小の世界で人間を侵すという視点は、昨今の遺伝子工学的世界感を体感させてくれる。やはり科学の先端だ。前作の火星入植映画『オデッセイ』のように。それでいながら「キモいのが好き!」「気色悪さが快感」というファンにも存分に体感で感銘を与えてくれる。深い文化性をたたえながら、B級映画のように下世話な恐怖を与えるところが、リドリーのエイリアンの魅力なのだ。(サエキけんぞう)