9月21日なかなか上昇してこない物価に黒田総裁の表情もさえない。(写真=ロイター/アフロ)

写真拡大

9月21日、日本銀行の政策決定会合で「異常な事」が起きた。9人の審議委員のうち、今回から委員となった片岡剛士氏が「金融緩和は不十分」として反対票を投じたのだ。黒田総裁は記者会見で「異常な事ではない」と説明したが、はたして「異次元金融緩和」にどんな出口を用意するつもりなのか――。

■自民党が選挙に勝てば続投か

日銀総裁の黒田東彦は来春で5年の任期を迎え、あと半年に迫る「総裁人事」の行方に注目が集まっている。衆院解散、総選挙に向けて動き出した首相の安倍晋三が、選挙で勝利し、政権基盤が安定化すれば、日銀人事を決めるのは名実ともに安倍ということになる。

市場では、すでに安倍は、黒田を続投させるのではないか、との観測が広がっている。その舞台裏と異次元金融緩和を導入した黒田日銀の課題を点検する。 

「企業は、名目賃金が上がった分を製品価格に転嫁することに慎重だ」
「足元の物価や賃金の上昇が、現行政策を導入した時の期待に比べてやや遅れているのは事実」

金融政策決定会合を終えた9月21日の記者会見で、「この1年間で最大の誤算は何か」と問われたことへの黒田の答えだ。黒田の口ぶりは、どことなく投げやりで、表情には疲れがにじんでいた。

日銀は今年7月の「展望レポート」でデフレ脱却の目標として掲げてきた消費者物価上昇率2%の達成時期を「19年度ごろ」と予想し、再び先送りした。デフレ脱却への道筋は視界不良のままだ。

■異次元金融緩和の「敗北宣言」

黒田は、国債の大量購入を軸とした異次元金融緩和で、物価が持続的に下落するデフレからの脱却を目指した。年間80兆円という巨額の国債購入で、円の供給量を爆発的に増大させた上、マイナス金利まで導入した。その狙いは、「円」という通貨への過剰な信頼を破壊し、モノやサービスへの欲望を取り戻させることだ。

別の言い方をすれば、モノと円の関係で考えると、100円のモノが102円出さないと買えなくなるということは、同じモノを買うのに多くの円が必要となるわけで、円という通貨への信頼の低下はインフレを意味する。 

首相の安倍は、第二次安倍政権がスタートさせる際、こうしたリフレ派の考え方を大胆に導入することを宣言、2013年春にリフレを推進できる日銀総裁として黒田を選んだ。2%という目標は米欧にならったもので、人々の物価観を2%にアンカーすること、要するに人々が将来にわたって、物価は毎年2%くらい上がり続けると予想するようになることを狙った。

しかし、物価目標の達成は繰り返し先送りされており、黒田は、デフレ脱却を実現できていない。 

その背景について日銀は1年前に公表した「総括的な検証」で「適合的な予想形成」という分析を示した。過去のデフレに引きずられて企業や消費者が行動するため、異次元金融緩和を実施しても人々の物価観を転換できなかったという説明だ。

これは、異次元金融緩和の「敗北宣言」と言ってよいだろう。 

■効果薄れた異次元金融緩和をめぐる対立

総括的な検証と合わせて黒田は、異次元金融緩和に10年物国債の利回りをゼロ近辺に誘導する長期金利の目標を導入した。伝統的な金融政策では中央銀行が操作するのは、短期金利で長期金利は操作できないと考えられていた。その点で長期金利を操作しようという政策も異例の政策なのだ。

これは事実上、日銀のさらなる国債購入に縛りをかけるものと言える。この枠組みでは、日銀の国債購入は、政府の国債発行の増減と表裏一体となり、金融政策は事実上、政府の財政政策に従属する形になった。

長期金利の行方を左右する最大のファクターは、政府が発行する「10年物国債」の量だ。政府が財政再建を進めて、国債の発行量を絞れば、長期金利は下落傾向を示し、財政の拡大を進めれば、長期金利は上昇傾向を描く。結局、長期金利をゼロ近辺に誘導するという目標は、政府の国債発行の動きに連動せざるを得ない。

銀行の収益にダメージを与えるマイナス金利の深掘りや、株価の価格形成にひずみを与えるという批判の多いETF(上場投資信託)の買い入れ拡大も難しいだろう。総括的な検証以降は、国債の購入規模も徐々に縮小しており、公式な宣言はないものの、異次元金融緩和は事実上、打ち止めとなり、出口に向けて舵が切られつつある。

このため黒田の異次元金融緩和に対して、一部のエコノミストや野党からも「アベノミクスの失敗だ」との批判は強い。日銀の有力OBも含めて、異次元金融緩和のデフレ脱却効果を疑問視する声は強く、日銀内にも黒田に金融政策に批判的な声は多い。

一方で、黒田の金融政策の理論的な基盤となったリフレ派の中には、逆に一段の緩和拡大を求める声もある。例えば、総務省が発表した7月の完全失業率(季節調整済み)は2.8%で人手不足はバブル期並みになっている。過去の経験からすれば、賃金上昇→物価上昇局面に入ってよいのだが、物価は安定したままだ。

このためリフレ派の中からは、事実上の失業率の下限とされる構造失業率は「2.8%よりさらに下だ」との見方もあり、追加的な金融緩和を通じて、さらなる失業率の改善、賃金の上昇を通じてデフレ脱却を実現できるとの指摘も出ている。「総括的な検証」で日銀が示した分析とは、大きく食い違う見解だ。 

21日の金融政策決定会合でデビューしたリフレ派の審議委員・片岡剛士が「緩和が不十分」だと指摘し、現行政策に反対票を投じたことには、こうした背景がある。

黒田は、総括的な検証や長期金利を誘導目標に設定したことを受けて金融政策の手足を縛られ、手詰まり状態に陥っている。さらに、伝統的な金融政策を重視する日銀OBからは一日も早く異次元金融緩和から出口へという圧力がかかり、黒田に近い理論的な背景を持つリフレ派からは、緩和不足を指摘されるという逆方向からの批判も受けている状況だ。

米連邦準備制度理事会(FRB)が、2008年のリーマンショック後に導入した量的緩和政策を終結、10月からは拡大した保有資産の縮小に舵を切る。欧州も追随して「出口戦略」に向かう方向だ。

こうした中で、日米の金利差に着目した、円安傾向が維持されており、グローバル企業の収益拡大効果に期待した日本株高が続いていることは日本経済にとっては追い風だ。しかし、世界的な景気拡大の流れが不況に転じた時、現在の枠組みを掲げている黒田は、追加的な金融緩和で景気を刺激する手段が、極めて限られている。

■黒田の交代はアベノミクス失敗との印象与える

では、首相の安倍が、四面楚歌の黒田を続投させる可能性が高いとみられている背景は、どこにあるのだろうか。 

まず、足元の円安傾向と2万円に達した日経平均株価(225種)、失業率の低下など日本経済をめぐる良好な環境を作る上で、黒田の異次元金融緩和が一定の効果を発揮したことが、大きいだろう。

リーマンショック後に、欧米が大規模な量的緩和に動く中で、黒田の前任総裁である白川方明の量的緩和は、明らかに迫力不足だった。このことが、急激な円高を呼び込み、株価の低迷を招いたとみる専門家は多い。

黒田がFRBを超える勢いの異次元金融緩和を導入したことで、円安ドル高が実現、グローバル企業の海外子会社が稼いだ利益を円換算した連結決算ベースの利益を拡大させ、株高を演出した。さらに団塊世代の大量退職などに加えて、株高による収益の拡大が企業の採用意欲を高めた点は見逃せないだろう。 

アベノミクスの第一の矢にあたる異次元金融緩和は、その政策の目標であるデフレ脱却は実現できていないものの、円安という回路を通じて、日本経済の好転に貢献していると言える。

そう考えると、安倍の「ポリティカルアセット」の形成に、黒田は大きく寄与している。安倍政権は、テロ等準備罪の強行採決や森友学園、加計学園問題をめぐる対応の不備で、一時は大きく支持率を下げた。そうした中で、解散総選挙に踏み切る力を安倍に与えたのは、北朝鮮の脅威や民進党の混乱に加えて、株高や雇用環境の改善によって国民の支持があると判断したからだと考えられる。

「ここで黒田さんが交代させれば、異次金融緩和を柱とするアベノミクスが失敗だったとの印象を与えかねない。黒田さんが強く固辞しないなら、続投の可能性が高いだろう」 

安倍に近い筋は、こう言う。批判が多くても黒田の金融政策が、支持率の低下に歯止めをかける一因になっているとみられるからだ。

■取りざたされる次期総裁の名は? 

仮に黒田が交代するとなった場合、総裁候補として有力なのは、コロンビア大学教授の伊藤隆敏だろう。黒田が財務省で財務官を務めた時代に、副財務官として支えたのが伊藤だ。伊藤は、経済学者としてリフレを表明しており、黒田がリフレ派になる上での理論的な支柱となった一人だ。

黒田の異次元金融緩和が、維持されるというメッセージを市場に与えるためには「伊藤総裁」は有力なカードとなるだろう。また安倍のブレインでリフレ派のスイス大使・本田悦朗が起用される可能性も取りざたされそうだ。 

副総裁については、リフレ派の経済学者から起用された岩田規久男は高齢なこともあり交代の可能性がささやかれている。後任には、同じくリフレ派の経済学者で早稲田大教授の若田部昌澄が浮上しそうだ。

日銀出身者の副総裁については、現在の中曾宏から、異次元金融緩和を理論、実務の両面で支えてきた理事の雨宮正佳に交代する可能性が出てくるだろう。

次の日銀総裁は、黒田が続投しても、別の人物が起用されても、異次元金融緩和からの出口という撤退戦を担うことになる。不確実性の高い世界経済の動向を踏まえ、経済への影響を慎重に見極める難しい作業が続くだろう。市場との粘り強い対話を続け、異次元金融緩和の出口を丁寧に演出する地道な政策運営が求められることになる。(文中敬称略)

----------

小野展克(おの・のぶかつ)
名古屋外国語大学教授。1965年、北海道生まれ。慶應義塾大学文学部社会学専攻卒。89年共同通信社入社。日銀キャップ、経済部次長などを歴任。嘉悦大学教授を経て、2017年より名古屋外国語大学教授、世界共生学科長。博士(経営管理)(2016年)。著書に「黒田日銀 最後の賭け」(文春新書)、「JAL 虚構の再生」(講談社文庫)、「企業復活」(講談社)などがある。

----------

(名古屋外国語大学教授 小野 展克 写真=ロイター/アフロ)