韓国で文在寅(ムン・ジェイン=1953年生)政権が発足してから4か月。対北朝鮮政策で苦慮しているが、経済政策は一貫している。

 「所得主導成長政策」だ。

 立て続けに方針を打ち出すが、企業からは懸念の声が強まっている。

 「質の高い働き場の拡大と賃上げ」――文在寅大統領は経済政策を語る際、この2つの言葉を繰り返す。大統領選挙のときから、この点は、見事に一貫している。

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就任直後に仁川国際空港訪問

 5月12日、大統領就任後初めての国内視察に文在寅大統領が選んだのは、仁川(インチョン)国際空港だった。

 海外からの観光客の誘致など観光政策活性化のための訪問ではなかった。選挙公約である「非正規職の正規職への転換」を実現するため、公団が運営する仁川国際空港に行ったのだ。

 文在寅大統領は、空港で勤務する非正規職と懇談し、「在任中に公共部門の非正規職をゼロにする」と語った。

 7月15日、政府は、2018年の最低賃金を7530ウォン(1円=10ウォン)とすることを決めた。前年比でなんと16.4%もの高い伸びだ。文在寅大統領は、2020年までに最低賃金を1万ウォンに引き上げることを公約にしている。

最低賃金、16%引き上げ

 2017年の最低賃金が6470ウォンだから、相当なペースで引き上げることが必要だが、予想さえも上回る伸びになった。

 2009年には最低賃金が4000ウォンだったから、10年強の間に2倍以上に跳ね上がる見通しだ。

 このほかにも、文在寅政権は、立て続けに新しい政策を打ち出している。大企業と下請け企業との協力拡大、雇用を拡大した企業に対する税額控除の拡大、大企業に対する採用拡大要請・・・。

 企業にとってはコスト増加になるこうした要求や政策が続々と出てきているのだ。

 企業からは悲鳴も聞こえるが、文在寅政権は、企業を敵と見ているわけではない。企業に闇雲に負担を強いようと考えているわけでもない。

所得主導成長論

 「所得主導成長論」

 新政権は、あまり聞きなれない、こんな理論に基づいて政策を進めようとしているのだ。

 現政権の基本的な考え方は、過去10年続いた保守政権の経済政策は失敗だったと見ることから出発する。

 これまでの考え方は、減税や規制緩和などで企業、特に大企業の投資を促すものだった。大企業の企業活動が活発になれば、中堅中小企業に波及する。さらに、賃金が上昇し、消費も拡大する。こうした考え方だったとみる。

 「トリクルダウン効果」を期待したサプライサイド経済政策だったというのだ。

 だが、この政策で何が起きたか。ごく一部の企業だけが好業績を上げ、役員や従業員は高額な報酬を得る。ところが、ほとんどの企業や中堅・中小、零細企業は苦しいままだ。経済格差は広がってしまった。

 「トリクルダウン効果」は幻想だった。

 では、どうすればいいか。これまでとは異なる政策を進めるべきだ。それが「所得主導経済論」だ。

学峴学派と西江学派

 質の高い雇用を拡大して、賃上げを図る。そうすれば、消費が増加し、投資が拡大、労働生産性も向上して企業の利益も増加するとみる。

 サプライサイド経済策とは逆のアプローチだ。

 だから、なによりもまず、非正規職の正規職かや最低賃金の引き上げ、下請け企業との取引条件改善などを重視するのだ。

 この2つの政策は、「成長」重視か「分配」重視か、という経済哲学にもつながる。

 「学峴(ハクヒョン)学派」

 韓国の経済学者の間では、長年、「成長」か「分配」かを巡って論争があった。

 朴正熙(パク・チョンヒ)政権以降、長年続いた保守政権は、「成長重視」だった。この政策を支えたのが、西江(ソガン)大学教授らのグループで、「西江学派」と呼ばれる。

 これに対して、「分配重視」を掲げたのが、「学峴学派」と呼ばれた学者たちだ。

 学峴というのは、辺衡尹(ピョン・ヒョンユン=1927年生)ソウル大名誉教授の雅号だ。辺衡尹名誉教授は、進歩的な考え方で知られ、1970〜80年代にかけて大きな影響力を持った有名な経済学者だった。

 「開発独裁型」の政策に異論を唱え、「経済民主化」を最初に主張したグループでもある。

愛弟子が青瓦台経済首席秘書官に

 尹衡尹名誉教授の愛弟子の1人こそが、文在寅政権で青瓦台(大統領府)の経済首席秘書官に就任した洪長杓(ホン・チャンピョ=1960年生)氏だ。

 洪長杓氏は、ソウル大経済学部を首席卒業した秀才で、尹衡尹名誉教授に師事した。多くの若手学者が米国留学に出た中で、洪長杓氏はずっと韓国内に残り、ソウル大学で修士、博士号を取得した。

 釜山にある釜慶(プギョン)大学教授として「所得主導成長論」を唱えた。廬武鉉(ノ・ムヒョン)政権でも政策ブレーンの1人だったが、文在寅大統領に対しても、早くから「所得主導成長論」を唱えて政策作りに協力した。

 洪長杓氏と並んで、青瓦台の経済政策の最高責任者に就いたのも、高麗大学教授として長年「経済民主化」に共鳴して財閥改革を唱えてきた張夏成(チャン・ハソン=1953年生)政策室長だ。

 青瓦台の首席秘書官は閣僚より強大な権限を持つ。2人が実質的に経済政策については最大の権限を持つと言ってよい。

効果はあるのか?

 さて、では、この「所得主導成長論」は効果を発揮するのか?

 所得増加→消費増加→投資増加→生産性向上→企業業績向上・・・こういうシナリオだが、どうなるのか。

 「韓国の最大の問題は経済の両極化だった。これがさまざまな対立を生み、政治的な不安材料にもなった。最低賃金引き上げや、非正規職の正規職転換から手をつけるのは、経済政策としても、社会政策としても間違いではない」

 進歩系新聞社デスクはこう擁護する。だが、産業界や学者の間では懐疑的な意見が多い。

 「最低賃金をこれだけ引き上げると企業は雇用を減らさざるを得ない。雇用問題はさらに悪化する恐れもある。全体的な人件費負担の大幅増加は、韓国経済のけん引役である輸出競争力に打撃にもなる」

 「非正規職の正規職転換や、公企業での採用拡大、補助金などで、歳出が増え、財政が悪化する恐れもある」

 こういう懸念は根強い。

 文在寅政権が進める「良い仕事場の創出」政策は、単なる人気取りの思いつき政策ではない。「所得主導成長論」という理屈に基づいている。

 根底には、これまでの「一部大企業主導の経済成長を志向した政策から転換する」という信念がある。だから、一度動き出すと、軌道修正が簡単でない。

 多数決を取るとすれば、いまのところ、支持層が多いようだが、問題は、この理論が、実際に機能するのかどうか。確信を持ってイエスと言い切る専門家が多くはないことだ。

筆者:玉置 直司