福澤は西郷の死を惜しんだ 近現代PL/AFLO

写真拡大

 啓蒙思想家・福澤諭吉はその著書『明治十年丁丑(ていちゅう)公論』で、西南戦争を起こした西郷隆盛を、言葉を尽くして擁護している。開明派として知られる福澤が、反乱軍を率いた西郷を庇ったのはなぜか。明治大学教授の齋藤孝氏が解説する。

 * * *
〈西郷の死は憐れむべし、之を死地に陥れたるものは政府なり〉

 これは『丁丑公論』の一節です。この前段で福澤は、「明治政府が西郷率いる士族の暴発を未発に留めることができなかっただけでなく、かえって暴発を促したのではないか」と指摘し、「政府は、西郷の死を防ぐための手立てをもっと積極的にすべきだった」と、西郷の死を憐れんでいます。加えて福澤は、「政府が西郷を殺したんだ」と繰り返し訴えます。

〈政府は啻(ただ)に彼れを死地に陥れたるのみに非ず、又従て之を殺したる者と云うべし。西郷は天下の人物なり。日本狭しと雖(いえど)も、国法厳なりと雖も、豈(あに)一人を容るゝに余地なからんや。日本は一日の日本に非ず、国法は万代の国法に非ず、他日この人物を用るの時あるべきなり〉

 西郷を「天下の人物」と呼び、「いくら日本の領土が狭く国法(国の法律や掟)が厳しいと言っても、どうして西郷一人を日本に置いておく余裕がなかろうか」と、西郷を死に追いやった明治政府の狭量さを嘆いています。西郷とは互いに面識はなかったものの、この一節を〈是亦(これまた)惜むべし〉と結び、さらに感情を込めている。これは福澤の他の著作と比べると非常に珍しいことです。

 ここまで西郷を擁護したのは、やはり福澤の存在証明=アイデンティティでもある“侍の気概”の表れからです。福澤は開明的なイメージが強い人物ですが、そもそも1835(天保5)年に生まれた侍の育ち。明治維新最大の功労者は侍だと見なしており、その代表格である西郷は、福澤にとって感情的になってしまう存在なのです。

◆西郷が抱えた「矛盾」

 福澤は言説をもって明治の代をリードした人物。実際に戦場へ赴いたり、政治を行ったりはしていません。一方の西郷は、体を張って多くの偉業を成し遂げました。「廃藩置県」や「地租改正」など、国を挙げての大掛かりな制度の導入に成功し、「天皇制の成立」という、その時代において最大の改革を、自ら戦場に立って勝ち取っています。

 それ故、福澤は西郷を「英雄だ」と大きく称えました。西郷は新政府の中心的な存在であり、決して“旧弊(古いシステム)に縛られていた人”ではないのです。

 しかし、西郷には「矛盾」もありました。士族が長年抱えていた不満を、深い情を持って受け止めていたのです。西郷は理屈や論理だけで動くのではなく、情を含めて士族の思いを全部飲み込み、最後は実際に戦った。その時々で意見を変えるご都合主義ではなく、断固としてやり抜く潔さは、まさに侍。西郷という人物そのものの生き方を福澤は高く評価し、共感していたのでしょう。

 一方で明治政府を痛烈に批判していますが、決して「反政府」という立場ではありません。欧米のように民主主義的な国家へと変貌を遂げる途中にあった日本にとって、何が必要なのかを提案し続け、常に政府を監視していたのです。現代においても、マスコミが権力を監視する機能を持っていますが、当時の福澤は“一人大マスコミ状態”と言えます。『丁丑公論』には、西南戦争は日本の文明開化を遅らせたため、結果的に害だったと指摘する記述もある。

〈結局人を殺し財を損じ、加之向後の成行き、必ず士族の気力を失わしめ、政府専制の慣習を養成し、開化の歩を遅々たらしむるは、この度戦争の余害なり〉

 武力・兵力を嫌っていた福澤は、明治になってわずか10年で、政府が武力による問題解決をしようとしたことを嘆いています。西郷軍が「戦う」と言っても、それをしないで済ませるような力が政府にはあったのではないか、と。

 福澤は、民を支配できる特権を捨ててまで明治維新のような大改革を成し遂げ、自ら支配階級を降りた士族に対して、政府があまりにも鈍感であり、救いを差し伸べていないと思っていたのかもしれません。

 最大の功労者・士族の代表格である西郷を、同じ“侍の気概”を持つ者同士として福澤は深く理解し、その後の文明開化のために必要な人物だったと、『丁丑公論』で惜しんだのです。

【PROFILE】齋藤孝●1960年静岡県生まれ。東京大学法学部卒業。同大大学院教育学研究科博士課程等を経て、明治大学文学部教授。専門は教育学、身体論、コミュニケーション論。『西郷どんの言葉』(ビジネス社、9月上旬発売予定)など著書多数。

※SAPIO2017年10月号