なぜ「忙しさ自慢」をしてしまうのでしょうか(写真:tomos / PIXTA)

「最近忙しくて」という、ついやりがちな「忙しさ自慢」。でも、その奥にある「忙しくなりたがる」心理が、時に自分を過労に追い込んだり、生産性の上がらない毎日をつくることがあります。鎌倉にある月読寺の住職であり、ビジネスパーソンにも座禅を教える小池龍之介先生に、「忙しさ」に溺れないコツについて語っていただきます。

「忙しいんだよ」「仕事がいっぱいで、最近、眠る時間もあまり取れないんだよね」など、など。

しばしばこうした台詞(せりふ)は「忙しさ自慢」として他人には嫌われがちです。嫌われがちであることも今いち自覚しないままに、忙しさ自慢をしてしまうとしたら、その理由は何でしょうか。

それは単純です。気持ち良いからですね。

では、なぜ気持ち良いのでしょうか。忙しいということは、仕事がたくさん与えられているということで、皆から自分が役立つ、求められている存在として扱われていると思えるからです。

――つまり、「この私は、有意義な人間なのである!」と、偉そうな気分に浸れるからだと申せるでしょう。

そしてこうした発言は、自覚はなくても偉そうで「私って本当はスゴいんですよ!」と言っているのと同じであるため、もちろん嫌われてしまうんですね。

忙しさ自慢の奥にあるもの

他人から嫌われるかどうかはともかくとして、こうして忙しくなりたがる根性のため、不必要に苦痛を背負い込む傾向があるとすると、それは得策ではないでしょう。

仕事のスケジュールの組み方にせよ、休日の予定の立て方にせよ、似たようなことが申せます。スケジュール帳に空白のところがあると、何となく自分が、誰からも求められていない、役に立たない人間であるかのように感じるのが怖くはありませんでしょうか?

もしそのような恐れがあるなら、うっかりギュウギュウ、キツキツに人と会う予定を詰めこみすぎてしまいかねません。あるいは、キャパシティを超えて、タスクを詰めこんでしまうことも。

こうして、「忙しい、忙しい」と、グチに見せかけて屈折した自慢をする人が完成するのです。

忙しさ自慢には、「嫌われる」以外のデメリットもあります。自らをいろいろと損なうのです。

何となく有意義な有能な人間になった気分を味わえるのとは裏腹に、キャパシティを超えて働きすぎるせいで、疲労もたまります。創造性も落ちてきて、発想の転換を図る余裕もなくなり、惰性に陥りがちです。

「ステキな私」という、何の得にもならないナルシシズムの代償は、大きいということですね。

ですから、予定を入れるか否かについて、選択の余地があるなら、ちょっと内省して立ち止まってみましょう。予定を増やして「ステキな私」を保ちたい気持ちが隠れているのに気づいたら、キャパシティを超えないよう、気をつけましょう。

予定と予定の間に適度な隙き間を残しておいたり、時には人と会わずに内省できる時間も、残しておくようにするのです。

それが、前回や前々回の記事で記したような心のリセットをするチャンスにもつながり、総合的に見れば生産性を高めることにもなるでしょう。

「私のイメージ」が、「リラックス」を妨げる

そもそも、私たちのやる気や集中力というものは、割合にふわふわと変動しており、あるタイミングではより高まり、あるタイミングではより低まったりしています。ずーっと、ガリガリガリガリと無理して働くよりも、「低まってきたとき」には柔軟に休息し、その分、リフレッシュして再開するほうがずっと有意義なのです。

この際にも、リラックスするのを邪魔しているのは、「私」のイメージです。「すばらしい私」には、「休息」とか「何もしていない安らぎ」とかは不要なのである!!………とばかりに、現実をありのままに見られなくなっている、ということですね。

そうです、「私とは、〇〇な人間である」というイメージこそは、リラックスして安らぐためには、最大の障害のひとつなのです。

「私は、忙しい人である!」をはじめとして、「私とは、面白い人である!」とか、「私とは、けっこうデキる人である!」などといった、心を縛りつけるもろもろの呪いです。

こうしたイメージがいったん生み出されてしまいますと、そのイメージに沿う出来事しか、心は受け容れたくなくなります。

それの何が問題なのかと申しますと、イメージに沿わないことは、誰であっても刻一刻と発生することです。

どんなにデキる人でも、調子は、脳内での多様なホルモンの分泌状況の変化に応じて、変動し続けています。ですから、その人物なりによりデキるときと、よりデキないときが当然ながらあります。

その変動は、外から他人が見てもよくわからないかもしれません。けれども、本人にとっては、よりデキるときは「デキる私」のイメージに合うのでうれしいでしょうけれども、平均よりも調子が落ちるときはイメージに反するので苦しく、ストレスフルな時間になることでしょう。

人は「デキる」人になったり、そうでなくなったりする

そして最大の問題は、これから起こる出来事が、「私はこういう人間」というイメージに合うのか合わないのか、誰にも事前には予測し切れないということにあります。

これから、「面白いイメージ」どおりにいくかどうか、「デキるイメージ」どおりにいくかどうか、それは、やってみないとわからないのです。たとえ今回はイメージどおりにいっても、「次はわからない」「だからイメージどおりにすべく頑張らないと!」という緊張と圧迫感が付きまとうのです。

つまり、「〇〇な私」というのを保つために、「こうしなきゃ」「ああしなきゃ」が増えていき、心が休まりません。

「私のイメージ」を保つためには、他人が自分をそのイメージどおりに見てくれている、というのが役立ちます。それゆえ、「こういうふうに見せなくては」とばかりに、他人の目を気にして振る舞うこともまた、増えることでしょう。

前回記事で記した自律神経との絡みで申しますと、こうして「〇〇な私」や人目を気にし続けていますと、交感神経が興奮し続けます。副交感神経の働きがすっかり落ちてしまうのです。そうした、神経がピリピリした状態でばかりいると、バランスが崩れて自律神経を崩しかねません。

思うに、「〇〇な私であらねば!」という呪縛は、「私とは何者だろうか?」という、小難しそうな問いに対して、平均的な社会人が無意識に出している答えです。つまり、「私とは、何者??」――「私とは、デキる人」「面白い人」「頼りになる人」といった具合です。

けれども、その手の答えは、実はすべて根本的に、間違っています。なぜなら先述のとおり、それらの答えに「合う」ときもあれば、「合わない」ときもしょっちゅうあるからです。

それでは私とは、「デキない人」「つまらない人」「頼りにならない人」という答えが正しいのでしょうか。もちろんそれらも、すべて間違っています。たまたまそれらに合うタイミングもあるだけであって、合わないときも山ほどあります。

それでは、私とは、何者なのでしょうか。――何を答えても、当たらないのです。ということは、「私」というのは、しっかりとした実体性を持たない、「なにかうさんくさいもの」だと言わざるを得ないでしょう。

この文章では、これ以上の深いところへ掘り下げるのはやめておきますが、ひとまずは「私」とはなにか、ちょっとうさんくさくてインチキっぽいものだ、という程度に理解していただければ十分です。

だとすれば、そんなインチキなものを後生大事に守るために、精も根も尽きそうになるまで無理をするのは、割に合わないとわかるでしょう。

こうした道理がわかれば、少しずつ楽に生きられると思います。「こうじゃなきゃ!」と思いこんで緊張と負担を背負いこむとき、ふっと立ち止まって自己点検してみるなら、必ずや「〇〇な私」を守るために、意固地になっていたのだと、ハッとさせられるでしょう。

そして、その守りたいものは、インチキだったと思い出し、手放してみましょう。そうすれば、もっと大局的なところから、自然体で決断できます。ましてや、もはや「忙しさ自慢」をして他人に嫌がられることからも、足を洗えるに決まっていますね!