東京には、都合の良い勘違いをしている女が多い。

麻布十番で会員制サロンを開いている麗子のもとにも、毎週のように勘違い女が現れる。

麗子は毎週日曜日になると、その週に出会った女たちを振り返るのを趣味としている。

先週は、甘やかされたお嬢様の恋愛模様を紹介した。

さて、今週麗子を驚かせた女とは?




<今週の勘違い女>
名前:後藤貴子
年齢:40歳
職業:主婦、プライベートネイルサロン主宰


耐える女は、美しい?


きちんと自己主張をすることと、何でも我を通そうとすることは、全く違う。

「貴子さん…。このアザどうしたんですか?」

麗子は、常連客の1人である後藤貴子の左腕に、くっきりとした青いアザを見つけてしまった。

そう言ってしまった後に「聞いてはいけなかったのかもしれない」と思い直したが、時すでに遅し。貴子はバツが悪そうに「ちょっと、ぶつけちゃったのよね」と答える。

しかし、貴子が左腕を”ちょっとぶつけた”だけでないことを、麗子は分かっていた。

広尾の自宅の一室でプライベートネイルサロンを開いている貴子は、麗子が知る中で最も裕福で恵まれた「奥様」だ。

仕事柄手もとのネイルは控えている麗子だが、フットネイルをしに貴子の自宅へは何度も通っている。

広尾駅から徒歩で10分程度歩くだろうか。こんな一等地に…と驚いてしまうほど大きな豪邸。

通された広いリビングで行われるネイルの施術中は、お互いの話を沢山するのが常だ。

そのうちに、ポツりポツりと貴子がこぼし始めた家族の話は、麗子にはかなり理解が難しいものだった。

「夫婦喧嘩の愚痴」を超えた、夫からの酷い扱われ様。子供の為に自分を犠牲にする生き方など…。

そんな話を聞いていたからか、麗子には、左手のアザがどうしても「ちょっとぶつけてしまったもの」とは思えなかったのだ。


貴子の語る、理解不能な話


徹底的に我慢し続ける人生


貴子の家にネイルをしに行くたびに、麗子は思わずため息をついてしまう。

東京のこんな一等地にこんな大きなリビングのある家を建てられるなんて、どれだけ裕福なのだろうか、と。
麗子自身も麻布十番のわりと裕福な家庭の出身ではあるが、どの世界にも上には上がいるというのはこんな時に感じる。

部屋に初めて通された時、すっきりと洗練され、手間も時間もかけられたであろう、センスあるインテリアには、思わず感嘆の声を漏らした。

すると、貴子は遠慮がちに答えた。

「子供がね、もう大きくなったから。インテリアにもやっとこだわれるようになったのよ。」

貴子には娘と息子がそれぞれおり、順番も一姫二太郎と完璧だ。2歳差で、2人とも有名な私立幼稚園・小学校に通わせている。ご主人の母校だという。

今時珍しい暖炉の上には、幸せそうな家族写真が何枚も飾ってあった。




一生生活の心配をしなくても良いであろう裕福さに加え、私学に通う優秀な子供を育てている貴子。

きっと周囲の人からは、お受験という周囲からのプレッシャーにも完璧に応えた素晴らしい嫁・母親と評されているに違いない。

だが、麗子にだけは色々とこぼしてくれる話を聞くと、その生活はそう平穏ではない。

夫は日常的に、貴子を責めるような言葉を容赦なく投げつけてくるそうだ。

「料理の盛り付けのバランスが悪い」「なんでそんな簡単なことができないんだ」「いつもここに置いてあるはずの自分の服がない」と騒ぎ立てては、すべて貴子のせいにし、些細なきっかけで激昂するという。

「そういう時、言い返さないんですか…?」

思わずそう聞くと、貴子は悲しげな目を伏せながらつぶやいた。

「麗子さんは、ご結婚、まだなのかしら。」

はい、と答えると貴子は力なく笑い、「子供達のためよ」と言って席を立ってしまった。

そしてリビングでアイスコーヒーを用意しながら、こちらを振り向きもせずに続けた。

「私がね、我慢してれば。家族がうまくいくのかなって思うと何も言えないの。」

そんな風に畳み掛けられると、麗子は何も言い返せなくなってしまうのだった。


夫から虐げられても


子供にバラ色の未来を残したいから


貴子の発言の中でも、「言い返したら3倍になって返ってくるからね、疲れるのよ。黙って受け流しておくのが一番なの」というのが一番印象的だった。

下手に言い返して相手のおかしさを理解させようとしても、言葉の刃が3倍になって帰ってきてしまうだけだというのだ。

子供達の受験の時はプレッシャーとストレスが重なり、髪の毛がごっそり抜けてしまったこともあるという。

だがそんな状況でも、貴子はよもや「離婚をしよう」とか、「夫に変わってもらおう」などということを考えず、ただただ耐えるのだという。

それも、せっかく安定した選ばれし者のレールを歩み始めた子供達への愛情ゆえだという。

麗子は、麻布十番の『いいと eat ikkai』で一人、日本酒を飲みながら貴子のことを考える。




貴子は、私立の幼稚園と小学校に通う子供たちの為、いつも必ずと言っていいほどネイビーの服に身を包んでいる。

ネイビーのツーピース、ワンピース、トップスとスカート。

それがある特定の私学に子供を通わせる親たちの「制服」のようなものだということくらい、麗子もすぐに気がついた。

だが、そんな母親たちの中にも、このネイビーの制服を「子育ての第一の成功の証」として喜んで纏うタイプと、そうでないタイプがいる。

貴子は明らかに後者だ。

自分が我慢してさえいれば、子供達にはバラ色の未来を残してあげることができるから、と耐え続ける人生の象徴のように思えてしまう。

「子供たちの為だから。」

そう言って力なく微笑む貴子を見ていると、麗子は「幸せとは何か」「結婚とは」ということを考えずにはいられない。

だが子供達は、そんな風に耐え忍び憔悴してしまう母を見て、本当に幸せになれるのか。

貴子は、誰に迷惑をかけているでもない。

それどころか、一人犠牲になることによってそんな不幸から抜け出そうとせず、「結婚をしていないあなたには分からないのよ」というメッセージすら感じてしまう。

もちろん守るものがない自分には、わからない世界があるのは理解出来る。

だがー。

夫を持ち、子供を設け、守らなければいけない生活があるからといって、本当に耐え忍ぶのが彼女の人生にとっての正解なのだろうか。

麗子には、答えがわからない。正論では論破できない問題であることも理解できる。

だが、自分はこうした扱いをしてくる夫からは、間違いなく逃げるだろう、と思う。

今貴子が甘んじているような、自己肯定感を少しずつ奪っていくような、そんな暮らしを続けて自分の感覚を麻痺させることでしか維持できない家庭生活。

それは、あの豪邸や有名私立に通う子供達というブランドすらも一気に色褪せて見せてしまうのだった。

Fin