俳優 小西博之さん

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「余命ゼロ」。欽ちゃんファミリーのメンバーとして名をはせた俳優の小西博之さんは、12年前、医師からこう告知された。だが、厳しい手術を乗り越え、告知から5年後には“完治宣言”も受けた。絶望する状況で小西さんを支えたものは、欽ちゃんの「落ち込め、泣け、受け入れろ」という言葉だったという。「大病」との付き合い方を、小西さんに聞いた――。

■「余命ゼロ」いつ死んでもおかしくない

まず、がんになった人、大病を宣告された人に僕が言いたいのは、「闘わなくていいよ」ということと、「思いっきり泣いてね」ということです。これは僕自身の経験からも断言したいことですね。

僕が腎臓がんで「余命ゼロ」を宣告されたのは2005年1月、僕が45歳の時でした。

その一年前の2004年1月くらいから、禁煙したことで増えた体重を元に戻そうと15キロのダイエットに取り組んでいました。僕は目標を設定する時に、それがかなったら「こんなにうれしいことがある!」とか、「こんな自分ってカッコいい!」という具体的な情景をイメージする習慣があるんです。この時も、スリムになった“カッコいい自分”を想像しながらダイエットをしていたので、順調に痩せていました。周りも僕がダイエットをしていることを知っていたので、会うたびに痩せていく僕を見て、「ダイエットが成功しているんだね」という風に見てくれていたのです。

8月から9月にかけてアフリカのサバンナで原住民族の方々と一緒に生活をするというロケが入り、そこでお腹を下した。10月に入り、体力がどんどん落ちていったのも、アフリカでの生活の影響だろうと思っていました。

ところが、12月になっても体調は戻らず、疲れた体を引きずっていました。顔色もドス黒くなってきて、さすがに周りから「いくら役作りでも人相が悪すぎるよ」と言われるようになっていたのですが、その時は映画の撮影が入っていたので、病院に行くことは考えていませんでした。

そして、12月23日、真っ赤な血尿が大量に出たのです。ようやく自分の体が何か重大な異変を抱えていること気づき、急いで病院に駆け込みました。

幾度もの検査の後に出た診断は左の腎臓がん。しかも医師から、「がんの大きさが20センチにもなっていて脾臓(ひぞう)を圧迫しているので、脾臓が腫れて破裂寸前になっていますよ。いつ死んでもおかしくない状態です」と告げられたのです。

「即死でもおかしくない」という宣告に、もちろん動揺はしました。でも、すぐに気持ちを立て直すことができたのは、何度もの検査の間に毎晩のように大泣きしていたからだったと思います。

最初の病院で検査をしたのが12月25日。そこから大きな病院を紹介されて、さらに検査をしたのが27日。この時に、はっきりと診断結果が出ないものの、「何か良くない。おそらくがんだろう」ということは察知しました。

その晩、僕は一人、お風呂に入って大声を出して大泣きしました。どれくらい泣いたかなぁ……。ひとしきり泣いたらのどが渇いたので、ビールを一口飲んでから、眠りにつきました。よく眠れたみたいで、翌朝は不思議と気持ちがスッキリしていました。そして、「さあ、目標、どうしよう。楽しい目標にしないとね」と未来のことを考え始めていた。

■がんを治して「徹子の部屋」に出演する

「がんを治して『徹子の部屋』で、その経験を話そう」――。そう目標を立てました。そして、その夜もお風呂でワンワン泣いてからぐっすり寝ました。

こうして、夜は大泣きして朝になると「今日も楽しい目標を考えよう」というルーティンができあがったのです。だから、(2005年)1月14日に告知を受けた時もショックから立ち直る時間が短くて済んだのでしょう。

とはいえ、告知後も僕は夜の大泣きを続けていました。やっぱり、体も弱っていますし、夕方あたりから体もつらくなってくると、気持ちもへこんでしまいます。

ある時、そのルーティンが大崩れしたことがありました。

2月1日の朝、何気なくカレンダーをめくったら、不意に「2月14日入院、2月16日手術」の文字が目に飛び込んできたのです。その瞬間、不安に襲われ、その場で泣き崩れてしまいました。

「俺、やっぱり死ぬかもしれへん。だって、がん20センチなんやで……」

そう思うと涙が止まらなかった。カレンダーの下から一歩も動かず、丸一日泣き続けました。

2日の朝、自分が同じ所に一日中いたことに気づき、2メートルくらい先にあるソファまではって、今度はソファの上でそのまま泣き続けた。われに返ったのは3日のお昼ごろ。やっと「まぁ、なんとかなるか」と思えるようになった。

それにしても、涙って枯れないものなんだと、この時実感しました。

僕たちって大人になって、いつの間にか泣けなくなっていませんか。「人前で泣くのはみっともない」とか、「大きくなったら泣くことはよくないこと」だと教えられてきましたよね。でも、泣くことってすごく大事なことだと思います。泣くと自分の中に抑え込んでいた感情を解き放つことができるんですから。

がんの患者の方が家族にいる人はぜひ、ご夫婦で、ご家族で一緒に泣いて、不安な気持ち、何もしてあげられないもどかしさなどの感情を解き放ってみてください。それも大切な治療のプロセスのひとつだと思います。

また、がんの場合はよく「闘病」という言葉を使いますよね。僕は「闘病」という言葉は使わずに「治療」と言っています。「闘病」には闘うイメージがあるけれど、「治療」というと、治るものを治していくというイメージがあります。これだけで大きな違いじゃないですか。

■目標は壁のひとつ向こうに設定すること

手術は10時間近くに及びましたが、先生方のおかげで無事に終わり、リハビリに入りました。

リハビリ中に僕が考えていたことは、「壁のもう一歩先をイメージすること」でした。このイメージトレーニングの方法は、高校の野球部の監督、大学の教職課程で受けた児童心理学の教授など、僕の人生の要所で教えてもらったことです。

監督と教授からは「目標は壁のひとつ向こうに設定すること」「楽しい目標にすること」を教わりました。例えば、高校の野球部の監督は「甲子園を目指すな」っていうんです。「そうじゃなくて、甲子園の開会式の前日の宿泊所の夜を想像しろ」と。甲子園へ行くことは当然のことで、目標はその先に定めるんだという意味です。

児童心理学の教授も「子供にはできるだけ楽しい目標を持たせなさい。大学受験ならば、目標は志望校合格ではなく、志望校に入学した後のサークル活動を目標にさせなさい」と言う人でした。

僕の芸能界の恩師で師匠でもある萩本欽一さんからの学びも大きかったですね。欽ちゃんはいつも、「人生は50対50。幸せも不幸せも同じようにくるんだよ。でも悪いことも受け入れるんだよ。そうすればいつか必ず良いほうに転じるからね」と言っていました。

人は悪いことが起きることを「避けたい」「受け入れたくない」と思うものです。でも、欽ちゃんは「悪いことにあったり、失敗したら、落ち込め、泣け、受け入れろ」と言っていた。そうしないとその体験から学べませんから。20代の僕はその意味を十分理解できていなかったのですが、40代で病気になって、ようやくその意味が分かったんです。

■手術から5年後、医師から「完治」を告げられた

言葉の力について教わったのも欽ちゃんからです。「いつも良い言葉を使いなさい」と言っていました。今は科学的に証明もされていますが、欽ちゃんはずっと前から言葉の持つ力を知っていました。「根拠なんてなくても物事を前向きに考えると人の脳は潜在能力を発揮する」ということを。やはり師匠は偉大です。

手術から5年後、医師から「完治」を告げられました。それから7年、僕は元気に毎日を過ごしています。目標通りに「徹子の部屋」に出演することもできました。今の僕は物欲がなくなり、肩の力が抜けて、何でも「まぁ、ええやん」と受け入れるようになっています。

「生きてるだけで150点!」「生きてるだけで誰かのためになっている」っていうことを、一人でも多くの人に伝えたい。今は、がんを克服した人の、ハッピーエンドの映画を作って、多くの人を泣き笑いさせることが目標なんです。

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小西博之(こにし・ひろゆき)
1959年和歌山県生まれ。中京大学商学部卒業。教員免許を持つ。82年「欽ちゃんファミリー」の一員としてバラエティ番組「欽ちゃんの週刊欽曜日」のレギュラーに抜擢され、お茶の間の人気者になる。その後俳優として数多くの映画やドラマに出演。現在では年間100回以上の講演で「命の授業」を行っている。今年7月に『生きてるだけで150点!』(毎日新聞出版)を出版した。

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(俳優 小西 博之 取材・構成=田中響子 撮影=澁谷高晴)