ユートピアの実現は可能か(写真:Sergey Nivens / PIXTA)

「機械や製品の製造コストはゼロ、労働時間も限りなくゼロへ」「生活必需品や公共サービスも無料」「民営化から国有化へ」「公共インフラを低コストで提供し、単なる賃金上昇よりも公平な財の再分配へ」「ベーシックインカムで、劣悪な仕事は姿を消す」「並行通貨や時間銀行、協同組合、自己管理型のオンライン空間が出現」「経済活動に信用貸しや貨幣そのものが占める役割がずっと小さくなる」
日本では「ユートピア妄想ではないか、頭の中がお花畑なのでは」とも言われかねないこうした未来予測。元BBCキャスターでジャーナリストのポール・メイソン氏は、それを「プロジェクト・ゼロ」と名づけ、実現不可能ではなく、すでに始まりつつあると、このほど上梓した『ポストキャピタリズム』で紹介している。本稿では、ジリアン・テット、ナオミ・クライン、スラヴォイ・ジジュクら欧米の著名識者も感銘を受けた「プロジェクト・ゼロ」の世界は、むしろ、その対極にある新自由主義によって可能になったことを紹介する。

資本主義を待つ「2つのシナリオ」


資本主義への長期的な見通しは暗い。経済協力開発機構(OECD)によると、今後50年にわたり、先進国の成長は「緩やか」と予測されている。不平等のレベルは40%上昇し、発展途上国でさえ、近年のダイナミズムにあふれる成長は2060年までには衰えるという。

OECDのエコノミストは、とても気を配る人たちなので、「先進諸国では資本主義の最盛期は過ぎた。そのほかの諸国でも、私たちが生きている間に資本主義は終わるだろう」とはっきり言い切ることはないのだ。

この状況から抜け出すには、表面上では2つの道しかないようだ。1つ目のシナリオは、今後10年か20年にわたり、グローバルエリート(世界のエリート層)が権力にしがみつき、危機にかかるコストを労働者や年金生活者、貧困層に負わせる、というものだ。国際秩序は、国際通貨基金(IMF)、世界銀行、世界貿易機関(WTO)によって擁護され、弱体化した形でなんとか保たれる。グローバリゼーションを救うためのコストは、先進国の一般市民が引き受ける。だが、成長は停滞する。

2つ目のシナリオでは、世論が分断する。一般の人々が緊縮財政のつけを払わされるのを拒否すると、極右と極左の政党が権力を握るようになる。それどころか、国家が互いに危機のコストをほかの国家に負わせようとする。

グローバリゼーションは崩れ落ち、国際機関は力を失い、この20年間にくすぶってきた争いの火種――麻薬戦争、ポストソビエト愛国主義、ジハード主義、制御不能な人の移動とそれに対する抵抗――がシステムの中心部で炎を上げる。このシナリオでは、国際法に対する口先だけの約束はなくなる。そうなれば、拷問や検閲、恣意的な拘束、市民への監視が外交技術で普通に使われる手段となる。これは1930年代に起きたこととは異なるが、同じことが再び起こらないという保証はどこにもない。

どちらのシナリオでも、気候変動、高齢化、人口増加の影響が2050年ごろから急速に強まる。もし、持続可能な国際秩序を構築し、経済のダイナミズムを取り戻すことができなければ、2050年以降の数十年間は、世界は混沌としたものになるだろう。

第3のシナリオを提案する

そこで、従来の策に代わる案を提案したい。まず、新自由主義を軌道から脱線させて、グローバリゼーションを救う。それから、資本主義を超えて先に進むことで地球を救い、混乱と不平等から私たち自身を救済するのだ。

新自由主義を脱線させるのは簡単だ。欧州では、抗議運動や、急進派の経済学者や政党の間で世論が高まっているからだ。脱線させる方法は、巨額の金融取引の抑制や緊縮財政の撤回、グリーンエネルギーへの投資、高収入の雇用促進などが挙げられる。

しかし、それでいったいどうなるのだろうか。

ギリシャの経験からわかるように、緊縮政策を拒む政府は1%の富裕層を守る国際機関とすぐに衝突することになるだろう。ギリシャで2015年1月に行われた選挙で、急進左派連合(SYRIZA)が勝利した後、ギリシャの銀行を安定させる役目を担っていたはずの欧州中央銀行(ECB)が、あろうことかその銀行への援助を断ち、それが引き金となって約200億ユーロの預金が引き出された。そのため、左派政府は「破産」と「服従」のどちらかを選択せざるをえなくなった。

これに関して、議事録や投票数の記録やECBの説明を見つけることはできないだろう。右派の独『シュテルン』誌は「ECBはギリシャを『たたきつぶした』」と表現した。それは象徴的に行われた。「ほかに選択肢はない」という新自由主義の主要メッセージを強調するためにだ。

つまり、これはソビエト連邦に災害をもたらす結果となった資本主義がたどった道とは何もかもが違う。資本主義に反抗することは、自然の秩序や永遠の秩序に反抗するようなものなのだ、と言いたいのである。

昨今の危機は、新自由主義的モデルの終わりを意味するだけでなく、市場システムと情報を基盤とする経済とのずれが長く存在してきた表れでもある。私が『ポストキャピタリズム』を書いた狙いは、なぜ資本主義に取って代わることが、もはやユートピア的な夢ではないのか、どうすれば既存のシステムの中で、ポスト資本主義経済の基盤を築くことができるのか、どうすればポスト資本主義経済を早急に普及させることができるのか、を説明することにある。

テクノロジーは資本主義と共存できない

資本主義とは、単なる経済構造、あるいは一連の法律や制度だけを言うのではない。社会、経済、人口、文化、イデオロギーをひっくるめたシステム全体のことで、市場や私有財産を通じて先進社会をうまく機能させるために必要とされる。

これには企業や市場、国家以外に、犯罪組織、陰の権力によるネットワーク、ラゴス(ナイジェリアの旧首都)のスラム街の「奇跡の説教師」、ウォール街で不正を働くアナリストなども含まれる。欧州の衣料品メーカー「プライマーク社」にまつわる2つの出来事―─バングラデシュで縫製工場が崩壊した一方、ロンドンの店舗でバーゲン目当ての10代の女の子たちが興奮しすぎて騒動を起こしたこと─―も資本主義ならではの出来事だ。

資本主義をシステム全体として観察することで、数多くの基本的特徴が見えてくる。資本主義は有機体といえる。初期、中期、終期というライフサイクルを持っているからだ。複雑なシステムであり、個人も政府も、それに超大国でさえ、その動きをコントロールできない。

人々が分別のある行動を取った場合でも、その意図とは反対の結果となることも多い。また資本主義は学習する有機体でもある。絶えず適応するが、わずかな増加なら適応しない。大きな転換期には、危険に応じて、変形・変異し、前の世代には認識できないようなパターンや構造を形成する。

最も基本となる生存本能は、技術的変化を駆り立てることだ。もし、情報技術だけでなく、食料生産、あるいは産児制限、世界的な健康問題を考えるなら、この25年間は、おそらく人の能力が最も高まった時期のように思える。しかし、私たちが生み出したテクノロジーは資本主義とは共存できない。それは、資本主義が今あるような形をしているからではなく、おそらくどんな形をしていても共存できないだろう。

資本主義はもはや技術的変化に適応できなくなる。だから、ポスト資本主義が必要となるのだ。技術的変化を利用するために適応した行動や組織が自然発生的に現れれば、ポスト資本主義が可能になる。

『ポストキャピタリズム』で述べたいことを一言で表すとしたら、「資本主義は複雑で適応するシステムであるが、適応能力が限界に達している」のである。

言うまでもなく、私は主流の経済学からはかなり外れたことを述べている。景気が急上昇したバブル期に、エコノミストは、1989年以後に現れたこのシステムが永遠に続くと信じるようになった。

「財政政策と金融政策」という印が入ったダイヤルを回して調節する政治家と中央銀行の手にかかれば問題は何もかも解決できる、という彼らが使った言い回しは、人間の理性に訴えるには完璧だった。

新たなテクノロジーと古い形のままの社会にずれが生じる可能性があるが、テクノロジーを中心に、社会自体が単純に変わっていくだろう、とエコノミストは推測した。社会が適応することは過去にもあったので、彼らの楽観論には正当性があった。だが現在、その適応のプロセスが失速している。

情報は従来のどのテクノロジーとも違っている。その自然発生的な傾向が、市場を消滅させ、財産を破壊し、労働と賃金の関係を崩壊させかねない。私たちが乗り越えようとしている危機にはこうした背景がある。

ユートピアの実現は可能だ

こうした現状で重要となるのが歴史の知識である。これには読者が考える以上に強い力がある。

新自由主義では、自由市場が最終的なものであり、永久に続くと信じられてきた。そして、「自分たちの前にうまくいかなかった物事」として、過去の人類の歴史全体を書き換えようと試みた。だが、資本主義の歴史について考えてみてほしい。混沌の中で発生した数々の出来事のうち、周期的に起こるパターンの一部はどれだろう、後戻りできない変化はどれだろう、という疑問が湧いてくるに違いない。

『ポストキャピタリズム』の目的は、将来の枠組みを設計することだが、これはユートピア的な夢だろうか。

19世紀半ばにユートピアを掲げた社会主義のコミュニティは失敗した。なぜなら、経済やテクノロジー、人的資本の水準が十分発達していなかったからだ。情報技術があれば、ユートピア的社会主義のプロジェクトの大半が可能となる。たとえば、協同組合や共同体、そして人間の自由の新しい定義となる「解放された行動」が突然現れて広まることなどである。

いや、ユートピアを夢見るのは、庶民の生活から切り離された世界に住むエリート層のほうだ。彼らは19世紀の千年王国主義の宗派と同じようにユートピア的に見える。機動隊、汚職政治家、権力者に支配された新聞、監視国家から成る民主主義は、30年前の東ドイツのように、見せかけだけのもろいものだ。

人類の歴史をすべてひもとくと、崩壊の可能性を認めざるをえなくなる。大衆文化は崩壊に取りつかれているからだ。ゾンビ映画やパニック映画、具体的には映画『ザ・ロード』や『エリジウム』の黙示録後の荒れ果てた地を見て、私たちは崩壊で頭がいっぱいになるのだ。そうではなく、知的生物である人類が、理想的な生活や完璧な社会を、なぜ頭に描かないのだろうか。

それは、多くの人が理想の世界に決して住むことはできないだろうと夢をあきらめてしまったからだ。

人々はそのことに気づき始めた。私たちがそれぞれ別々の夢を数多く見るだけでは前に進まない。それ以上のことが必要だ。理由と証拠と検証可能な設計に基づいた首尾一貫したプロジェクトがなくてはならない。これは、経済の歴史の断片から学び、地球の未来という観点から取り組む持続可能なプロジェクトである。

私たちはこのやるべきことを進めていかなくてはならないのだ。

(訳:佐々 とも)