「16,777,216 iPhone view #1」acrylic and fluorescent pigment on iPhone6. 2017 photo by ARTZONE

写真拡大 (全3枚)

──Instagramが人気を誇り、「インスタ映え」なる言葉までも誕生した現代。それでは、日々アップロードされる「インスタ映え」する写真とは一体どういったものなのだろうか? なぜ、私たちは「インスタ映え」する写真を求めるのだろうか? 現代美術作家のHouxo Queが印象派や写真文化史、はては人工知能まで…美術史と進化するテクノロジーを引きながら、考察する。

【印象派絵画とInstagramを結ぶ〈イメージ〉 インスタグラマーは「真実」の夢を見るか?の画像・動画をすべて見る】

文:HouxoQue 編集:須賀原みち

私はHouxoQue(ホウコォキュウ)という名で現代美術の分野にて活動をしている作家である。主な代表作は液晶ディスプレイに直接ペイントをした「16,777,216view」というシリーズであり、現代の人々にとってのイメージとメディアの関係を主題とし、それに関する調査などを行いながら活動をしている。

この度、執筆の機会をいただき、Instagramを中心としたヴィジュアル・コミュニケーションが主となるSNSに関する考察をすることとなった。

〈イメージ〉



さて、私の住まう日本でもSNSは3.11以降のスマートフォンの爆発的な普及を伴ってもはや誰しもが利用しているといってもよい状況である。これには震災時における既存インフラへの打撃と比較して、SNSやメールなどパケット通信によるテキスト等の送受信の有効性が確認されたことなども一つの理由としてあるだろう。

また、ここにスマートフォンの普及が同期していった。このようなIoTの活用は、総務省の情報通信白書からも政策的に後押しされていることがうかがい知れる。SNSの普及は官民一体となって進められたのだ。

特に近年では、20代を中心にInstagramへの支持は強く、本稿をお読みの皆様もアカウントをお持ちのことかと思う。この原稿を綴っている2017年においては「インスタ映え」といった言葉まで現れ、どれほどまでに浸透しているかを窺い知れるものである。

市井の人々が自らの日常を、私的な時間を費やし、写真や画像、そして動画を〈イメージ〉として発信していること、そのことに私は大きく揺さぶられるような想いを抱いてきた。 今や人々は〈イメージ〉を欲望していて、私の知る限り、このように〈イメージ〉を欲する時代を私は知らない。同時代に生きる、一人の芸術家として、これほど興味をそそられることはない。

再生産され続ける写真達



さて、まずはInstagramなどを中心に拡大している、SNSに投稿された「インスタ映え」する写真について考えていこう。

とはいっても、この言葉に引き寄せられる視覚的な特徴に主だった新規性はないだろう。そこに溢れているものは、雑誌や広告で使われているような商業写真にどこか似た小奇麗なものばかりが並ぶ。

時に嘲笑的にこの言葉は使われるが、そこにはメディアが作り出してきたフィクショナルな〈イメージ〉への嫌悪感がうっすらと漂っている。だがむしろ、そのことがこの言葉の特異性を表しているだろう。なぜなら商業写真のような写真であっても、それらは商業写真ではなく個人の活動だからである。

例えば、フードポルノを趣味としているある者は蟹を食べに行くときに、蟹がもっとも鮮やかで美しく、食欲をそそるような見栄えに引き立てるための照明を持参していくという。「蟹にはこの色温度だ」と。

自撮りを趣味にしている者はスマートフォンのレンズの歪みを理解し、目を大きく見せるために利用する。肌が美しく映えるように逆光が効果的であることを理解する。またはアプリケーションの補正で目や身体のプロポーションなどを変形させる。 
https://youtu.be/iYhCn0jf46U

「インスタ映え」する写真は、プロのフォトグラファーやレタッチャーの持つ技術の方向性と、本質的に差異はない。既存の技術をより簡易的にテクノロジーなどに代用させているに過ぎない(もちろん、それを可能にさせている技術進歩には大いに驚嘆するのだが)。

さまざまなSNSが台頭する今、なぜこれほどまでにInstagramが強い支持を得ているのかと言えば、翻ってそれらの技術への参入障壁を取り払っていったことだろう。

フィルタと呼ばれる機能などは象徴的だ。本来、プロがスタジオや現像所で行うような、またはレンズやフィルムについての知識といった専門性の高い技術を、アプリケーションの一機能によって一般化してしまったのだ。この「プロの技術のエミュレーション」こそが、Instagramに溢れる写真の質感を作り出しているのだろう。

そして何よりも特筆すべきは、その消費構造が一つのエコサイクル化していることである。誰に頼まれたわけでもなく自発的に行っていることであり、またそれを行う量的な差は、プロフェッショナルの現場と比較するまでもない。Instagram上では、膨大な数のユーザーが「インスタ映え」した写真をアップロードしている。今この瞬間も世界中で再生産され続ける〈イメージ〉たち。それを欲動させるものは、一体なんだろう。

〈イメージ〉を介して私たちは現実を認識する



人々は〈イメージ〉を欲する。では、なぜ私たちは求め、作り出してしまうのだろうか。そのために、今度は〈イメージ〉について考えてみよう。

そのヒントとして、眼差しを過去へ。写実主義から離れ、「見た光を表す」という新しい試みを行い、「絵画とはなにか」という考え方に劇的な革命を行った美術の潮流・印象派をめぐる言説へと向けてみよう。

今から100年ほど遡った1914年9月5日、第一次世界大戦当時のフランスのとある前線に掘られた塹壕の中で、ドイツ軍の一兵士ヘルムート・チュッペの綴った手紙の内容が非常に示唆に富んだ内容となっている。
僕は、ここの自然の美しさに大いに喜びを感じている。今は秋だが、運河と並木の景色はまるでルノワールの夏の絵のようだ。すべてが絶えずきらきらと光り、楡の並木はさらさらと音を立てている。
フィリップ・フック (2009)『印象派はこうして世界を征服した』中山ゆかり訳、白水社


この手紙の中でチュッペ軍曹は、自身が見たものの美しさを表現するためにフランスの印象主義の画家ルノワールの名を例に出さずにはいられなかった。戦争中の敵国同士であるにも関わらず、当時のドイツ人の持つ〈イメージ〉にフランスの文化が影響を与えていたことが窺い知れる。

Ars Poetriaeさん(@arspoetriae)がシェアした投稿 - 2017 9月 9 6:28午前 PDT




印象主義にからめて、さらにもう一つ引用しよう。オスカー・ワイルドの『嘘の衰退』(1891年)からである。

印象派がいなければ、われわれの街路にしのびよってくるあの不思議な褐色の霧を、われわれはどこから得ることができただろうか?……あるいはわれわれの川面にたれこみ、弧を描く橋や揺れるはしけを優美に霞ませ、その輪郭をぼかす銀色の靄を?この十年のあいだにロンドンの気候に生じた異常な変化はすべて、ある特定の芸術の流派のせいなのだ。……物事はわれわれが目にするからこそおこるのであり、そして、われわれが何を見るか、そしてどう見るかは、われわれに影響を与えてきた芸術にかかっているのだ。
オスカー・ワイルド(1891)『嘘の衰退』西村考次訳、(オスカー・ワイルド全集4)、青土社


このワイルドの指摘は、一見して現実の事象そのものが芸術作品たちによって引き起こされたかのような主張にも受け取れるが、そうではない。印象派をはじめとした風景画に見慣れた者たちにとって、自身が見る自然の姿とは絵画に似たものなのだ。

これらの言葉たちは、視覚的イマジネーションと現実認知の狭間で〈イメージ〉と呼ばれるものがどのように働いてきたかを証言しているだろう。

現代の〈イメージ〉が繋ぐもの



さて、現在に戻ろう。もはや、私たちの〈イメージ〉を作るのは芸術作品だけではない。

100年前では考えられなかったことであるが、―ポケットの中にある―この小さな端末は、インターネットにさえ繋がっていれば有史以前の古代の洞窟画の写真を、カメラアプリを起動すれば今あなたの目の前の光景までをも表示することができる。今や、人々はキャンバスに描かれた絵画よりも、印刷された写真や新聞よりも、ディスプレイを通してさまざまな画像や動画を見る。

そこに映し出されるヴィジュアルの多様さは、SNSをはじめとしたインターネット上に登記され続ける情報によってこれからも増え続けていく。

「インスタ映え」する〈イメージ〉を撮影する人々は、視覚的なイマジネーション自体が広告写真のような消費構造に取り込まれているわけでも、目の前の現実に対しての発想が貧困なわけでもない。

ファッション誌のスナップフォトのような、ライフスタイルマガジンの提案するストーリーのような、シズル感溢れる料理写真をレストランのメニューのように、旅行雑誌で取り上げられていた場面のようなヴィジュアルを求めるのは、人々の中にそれらが〈イメージ〉として内在しているからである。

これを揶揄することは簡単だが、そのような〈イメージ〉と一切の手を切って生活することの困難さは、テクノロジーが浸透しきった現代の生活を見れば想像に難しくない。「インスタ映え」する〈イメージ〉と現実の距離は個々人に程度の差はあっても、誰しもの中に備わっている。

今や、100年前に絵画がいた位置に、対応するようにディスプレイに映された写真があり、私たちはそれに似た現実を見る。アプリケーションでフィルタをかけるように。

ワイルドの言葉を借りるならば、われわれに影響を与えてきたものの〈イメージ〉によって、「インスタ映え」する現実はおこっているのであり、それゆえに撮影され、アップロードされるのだろう。そして、その写真たちはさらなる〈イメージ〉を作り出す。

現代の私たちは〈イメージ〉の奴隷である、とまでは言わない。しかしこの循環は、もはや共犯関係であるとは言えるだろう。この関係は「いいね!」を押されることで強化され、より多くの「いいね!」を獲得した〈イメージ〉は強い現実となる。

1827年の写真の登場以降、写真によって絵画は「現実を映す」という機能を収奪されたが、その写真に印象主義の画家は影響され、彼らの作品は後の時代の〈イメージ〉となった。皮肉なことのようにも思われるが、現代では写真がかつての印象主義の絵画の位置にいるようにも思える。

つまり、当時の絵画における機能の喪失が、印象派のようなオルタナティブを引き寄せたのだとしたら、過去に写真が絵画から奪った「現実を映す」という機能を、現代ではさらに写真より奪いとる存在がいるはずだ。それは、なにか。

人〈イメージ〉/人ではない〈イメージ〉



人々が自身によって作り出し、またそれによって現実が駆動する現在、その視覚情報そのものよりもそれを生み出し続ける構造とその規模にこそ、特異性があるといえよう。かつての芸術作品や作者が限られていたメディアの特権性は失われ、それは誰しもが参入可能なものとして一般化した。その一つの象徴が、「Instagram」というSNSの台頭なのであろう。

それは裏を返せば、私たちが私たち自身によって自身の物語を紡がなければならなくなったことを意味している。ポスト・トゥルースという言葉が覆うこの時代において、〈イメージ〉によって規定されていく人々の行動の先にはどのような態度があり、また過去との差異があるのだろうか。

ここで一つの予言的な動画を見てみよう。これはAIによる音声とリップシンクからの学習の結果によって作り出されたオバマ元大統領の演説動画である。
Synthesizing Obama: Learning Lip Sync from Audio



もしも、この作られた映像をフェイクであると知らされず見せられた時に、私たちは果たしてその真贋を見分けることが可能だろうか。おそらく、それは機械を介さない限り人には不可能な領域に突入していくだろう。すでに今現在、精巧に加工された写真のどの箇所が加工されたのかを判定するためには解析ソフトが用いられているケースや、どの程度加工されているのかを開示するためにRAWファイルの提出が義務付けられてる写真のアワードもある(外部リンク)。

ここで、再びワイルドの言葉を思い出したい。私たちが現実を見るために〈イメージ〉を中継するように、人間以外の存在、例えば人工知能も同様の内在するものがあるのかもしれない。しかし、人工知能が持つ〈イメージ〉とはなにか。チュッペ軍曹のようにそれは芸術作品だろうか、現代の私たちのようにTL上に流れてくる画像や動画だろうか、それとも「真実」だろうか。

〈イメージ〉を介して生産され、流通される「インスタ映え」した投稿のように、人ではない存在が作り出した「現実映え」した投稿があふれ出した時に、私たちはそれによってディスプレイの外の光景をどのように見るのだろうか。そして、人ではない存在は、どのようにして世界を見るのだろうか。このことに思いを巡らせたときに予感される世界は、SF的な機械の暴走といったわかりやすい恐ろしさではなく、むしろそれらが溶け合った曖昧なものだろう。

真実は、もはや現実の上位にはない。真実は、この世界の真なる姿ではない。真実とは、〈イメージ〉を介して現実と対応された「真実」に過ぎない。そして、「真実」こそが「現実を映す」のだ。

〈イメージ〉の遊戯



ヴァルター・ベンヤミンは『複製技術時代の芸術作品』の中で機械による複製が可能になりだした当時の技術と古代の技術を比較し、以下のようなことを述べている。

【前略】第一の〔太古の〕技術がやたらと人間を投入するのにたいして、第二の〔現代の〕技術はできるだけ人間を投入することを少なくする。【中略】第二の技術の根源は、人間が初めて、そして無意識の智慧を働かせて、自然から距離をとりはじめたとこに、もとめられよう。いいかえれば、その根源は遊戯にある。
ヴァルター・ベンヤミン(1936)、多木浩二、『ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読』収録の野村修訳『複製技術時代の芸術作品』、岩波書店、p150-152.


ベンヤミンの生きた時代から今現在では、当然ではあるが大きな技術的進歩がいくつもあった。しかしながら、そこで示された技術を通して見られる人と自然との関係は今だ変わらずにあるようにも思える。では、私たちがこれから生きるであろう時代はどうか。人ではない存在が人を介さずにさまざまな情報を生成するのだとしたら、もはや人間が投入されなくなった第三の技術の時代ではないだろうか。

そして、もし仮にそのような時代が訪れるとするならば、人と自然はどのように振る舞うのか。ベンヤミンは続けて、自然と技術の関係についてこのように述べている。
真剣さと遊戯性、厳格さと無拘束性は、あらゆる芸術作品のなかに、絡まり合って現出している――その比率は千差万別だとしても。(中略)「自然の制御」が第二の技術の目的である、と称することにはきわめて大きな異論の余地があることに、ここで注意しておかなくてはならない。技術の目的をそのようなものと称するのは、第一の技術の見地からの見かたである。じじつ第一の技術は、自然を制御することをめざしていた。しかし、第二の技術はむしろ、自然と人間との共同の遊戯をめざすものであって、こんにちの芸術作品の決定的な社会的機能は、まさにこの共同の遊戯を練習することなのだ。【後略】
同上


今日、私たちがInstagramで目撃するさまざまな画像や動画、そしてそこから作られる〈イメージ〉たちは、まさに共同の遊戯を練習してると言えるだろう。「インスタ映え」する自然は、人に内在する〈イメージ〉によっておこるのだから。そして、遊戯の練習は、「いいね!」をされることでより強い〈イメージ〉を作り出し、完成されていく。

第三の技術の時代に、練習はない。おそらく自然と人は完全に共同した遊戯を行い、両者を隔てていたものは消えて、全てが曖昧になる。現代の私たちは〈イメージ〉を求めて生きるが、いずれ私たち自身が〈イメージ〉そのものとなるのだろう。

お洒落なカフェやレストランでの食事ばかりじゃなくて、現実は家で一人でみじめにカップラーメンを食べてもいる?そんな「真実」はもう存在しない。好ましいと判断されやすい〈イメージ〉を人工知能が用意してくれるのだろうし、本当の意味での現実のあなたの侘しい〈イメージ〉は存在しないから見えない。見えなければ、「いいね!」もできない。シェアすることもできないのだから、誰にも知られないし、そんなものは存在しないのと同義だ。

本当の私を見て? それが真実だと、紛れもないあなた自身だと誰が判断できるのだろうか。で、解析ソフトはなんと言っている?

【謝辞】
ちなみに余談ではあるが、私はInstagramのアカウントを持ってはいるが投稿は行っていない。所謂、ROM専である。それについての理由はあるのだが、さらなる文字数を要求することとなるため、ここではあえて控えたいと思う。

本稿を書くにあたっては、Instagramへ投稿することに関しては経験がないため、周囲の親しい人々から多くの助言をいただいた。この場を借りて感謝を述べたい。特にフードポルノに関しては友人の田崎 麻衣子氏からは多くの知見を得た。今は亡き彼女に本稿を捧げる。
HouxoQue



【展覧会情報】



特集「インターネット卍ジェニック 〜一億総ワンチャン時代〜」


KAI-YOU.netが送る特集第2弾「インターネット・ジェニック 〜一億総ワンチャン時代〜」は、9月いっぱいで更新予定。

記事一覧と予告は、特設ページから。続々更新していきますので、ご期待ください!!