ロヒンギャ問題解決に「消極的」な姿勢を見せるアウンサンスーチー国家顧問に対して批判の声が上がっている(写真:Darren Whiteside/ロイター)

ベンガル湾に面するミャンマー(ビルマ)西部のラカイン州。その北西部に住むイスラーム系少数民族ロヒンギャが続々と国境を越え、難民となって隣国バングラデシュにあふれ出ている。その数は40万人に達している。

発端は8月25日未明に発生した「アラカン・ロヒンギャ救世軍」(ARSA)を自称する武装集団によるミャンマー政府軍(国軍)への襲撃だった。武装集団とはいっても、持っていた武器の大半は槍とナイフにすぎず、旧日本軍の「万歳突撃」のように政府軍の基地を襲い、自ら数百名の死者を出している。政府軍側は10数名の犠牲者にとどまった。

「ロヒンギャ」と「難民」は一体化した現象

ミャンマー政府は即座に彼らをテロリストと認定、逃走した武装グループを追って軍と警察が一般ロヒンギャ住民の住む地域に入り込み、それが過剰な捜索と弾圧を生んだ。さらに正体不明の民兵が加わり、あちこちで住民に対する乱暴狼藉と放火が発生した。家を失い、恐怖に怯えた一般住民は、大挙して国境のナフ河を超えバングラデシュ南端へと脱出したわけである。

ロヒンギャは過去にも2度、1970年代後半と1990年代前半に、それぞれ20万人から25万人規模の大規模難民となってバングラデシュに流出している。2012年には彼らの居住地のひとつラカイン州シットウェーで、多数派の仏教徒ラカイン人との間で暴動に巻き込まれ、政府によってゲットーのような場所に追い込まれて不自由な生活を強いられた。

2015年5月には、大量のボート・ピープルとなったロヒンギャが南タイの海岸沖で木造船に乗ったまま漂流するという事件が発生。そして昨年10月には、今回より小規模の集団による国境警備隊襲撃事件が起き、軍と警察の過剰捜索と報復行為によって、数万の難民がバングラデシュ側に流出している。このように「ロヒンギャ」と「難民」は一体化した現象と化している。

ロヒンギャはインドのベンガル地方を起源とする人々で、保守的なイスラームを信仰し、一般のミャンマー人と比べて顔の彫りが深く、言語もビルマ語ではなく彼らがロヒンギャ語と称するベンガル語のチッタゴン方言の一つを使用している。それだけに仏教徒が多数を占めるミャンマー国民の多数派からの差別にさらされ、独立後の14年間を除き、1960年代以降は政府も抑圧的で排斥的な対応を取り続けてきた。

ロヒンギャは国内に100万人以上住んでいると推測される。人口調査の対象から除外されているため正確な数字は不明である。ミャンマー政府は彼らの存在を認めず、国籍を付与していない。より正確にいうと、名乗りとしてのロヒンギャを拒否し、「ベンガル人」「バングラデシュ人」などの名付けを押し付けている。

一方、ロヒンギャという民族名称は、文書史料の上では1950年までしか遡ることができない。その意味では戦後生まれた新しい民族集団とみなすことも可能である。ただ、この地で15世紀前半から18世紀後半まで栄えたアラカン王国の時代に、多数派の仏教徒と共に、ムスリムも一定数居住していたことが史実として知られ、そこに起源を求めることも十分できる。

アラカン王国に住むムスリムは、捕虜として連れてこられた人たちの子孫や傭兵たちで、王宮で役職に就く者もいた。アラカン王国は1785年、ビルマ王国(コンバウン朝)の侵略によって滅亡する。その後、1826年に第一次イギリス―ビルマ(英緬)戦争での敗北を経て、ラカインが英国の植民地と化すと、以後ベンガル側から大量のムスリムがこの地に入り、数世代を経て定住するに至った。

いつ、なぜ「ロヒンギャ」と名乗るようになったのか

アジア・太平洋戦争期(1941-45)には、イギリス勢力を追放しビルマを占領した日本軍がラカインで仏教徒の一部を武装化し、ラカイン奪還を目指す英軍もベンガルに避難したムスリムの一部を武装化した。両者の戦闘は日英の代理戦争とは別次元と化し、ムスリムと仏教徒が殺し合う「宗教戦争」となり、ラカインにおける両教徒の対立を取り返しのつかない地点に至らせた。

大戦後、1948年1月にビルマは英国から独立する。しかし、当時の東パキスタン(現バングラデシュ)と国境を接するラカイン州北西部は、1950年代初頭まで中央政府の力が及ばない地域だった。東パキスタンで食糧不足に苦しむベンガル人がラカインに大量に流入し、彼らのなかには武装反乱に走る者もいた。ラカイン北西部に住むムスリムがロヒンギャとして名乗りを挙げたのはまさにこの時期だった。

こうした歴史を整理すると、アラカン王国期からのムスリム居住者を基盤に、英領期のベンガルからの流入移民がその上に重なり、さらに旧東パキスタンからの新規流入移民の層が形成され、「三重の層」から成るムスリムがこの地域に堆積したといえる(1971年の印パ戦争時の流入移民を含めれば「四重の層」ともみなせる)。彼らが実際にどのように混ざりあい、いかなる理由で「ロヒンギャ」を名乗るようになったのかについては、いまだ明らかではない。

さて、今回の難民流出に伴うロヒンギャの苦境に関し、国際社会はメディアを含め、アウンサンスーチー国家顧問を非難している。しかし、彼女1人に責任を負わせることは前向きな結果を生まず、逆に事態を一層悪化させてしまう可能性が高いことに気付くべきである。

スーチー国家顧問は「大統領の上に立つ」国家顧問として、2016年4月からミャンマーを率いている。しかし、彼女には軍(国防)と警察(国内治安)と国境問題に対する指揮権がない。現行憲法がその3つの領域について大統領ではなく軍によるコントロールを認めているためである。

ロヒンギャ問題の核心はこの3つの領域と直接関わるため、彼女は自らの指揮権を用いてこの問題を解決に向かわせる法的権限を持っていない。もちろんそれでも、軍に意見は言える。彼女がそれをしているように映らないのは、そこに憲法改正に向けた彼女の長期的戦略が隠されているからである。

さまざまな軍の権限を認めた現行憲法は、かつて軍政期に15年もかけて準備されたものである。同憲法の改正のハードルは高く、上下両院議員の75%+1名以上の賛成がなければ発議できない。両院とも議席の25%が軍人に割り当てられているため、与党の国民民主連盟(NLD)は過半数という数の力だけでは改憲発議ができない。

軍は護憲にこだわり、改憲論議を拒否する。そのためスーチー国家顧問としては、軍に憲法改正の必要性と意義を納得させるために敵対を避け、信頼関係を深めていかざるを得ない。ロヒンギャを不法移民集団とみなし、今回の難民問題についても治安問題としてしか受け止めない頑なな軍に対し、彼女が強く意見を言えないのはそのせいである。

立ちはだかる多数派世論の壁

軍の頑固な姿勢だけにとどまらない。彼女はまた、反ロヒンギャに立つ多数派世論の壁も意識せざるを得ない。軍だけが壁であるならば、改憲が遠ざかるリスクを承知で国内世論に訴え、国際社会の声に迎合する態度を表明できたかもしれない。

しかし、上座仏教徒が9割近くを占める国家において、「仏教徒でビルマ語を母語とする人々だけが真のビルマ国民である」と考える排他的ナショナリズムに影響を受けた人々に対し、ロヒンギャ問題を冷静に語って理解させることは、短時間ではきわめて困難である。彼女が「この問題は歴史的に根が深く、発足一年半の政権にすぐに解決できるようなことではありません」と語ったことは、正しい現実理解として受け止めるべきである。

国際社会が仮に「何もしない」「何もできない」とスーチー国家顧問の責任を追及し、彼女を辞任に追い込んだとしたら、そのあとに何が生じるだろうか。

考えてほしいのは、彼女以外に国家顧問職(=彼女のために特別設置されたポスト)を継げる人物がミャンマーにはいないという事実である。国民のスーチー支持は非常に強く、そのかわりになれる人は見当たらない。

仮にティンチョー大統領が前面に出てきたところで、あくまでスーチー国家顧問の代理という立場にすぎず、40万人の難民帰還に後ろ向きでロヒンギャを治安監視対象としてしか見ない軍を制御する力はまったく期待できない。スーチー国家顧問が姿を消せば、ミャンマーでは政治全般への軍の影響力がいっそう強まり、ロヒンギャにとって状況はさらに悪化するだけである。

また、スーチー国家顧問を支持する世論は、同時に反ロヒンギャでもあるため、そこにねじれ現象が起きて、軍と共にロヒンギャ排斥に立ちながら、スーチー国家顧問を辞任に追い込んだ国際社会に対する反発を強める可能性が高い。そうなると、この国が2011年以降歩んできた開放化への道を逆転させてしまいかねない。国際社会はこうしたことを冷静に理解する必要がある。

スーチー国家顧問肝いりの委員会

実は、スーチー国家顧問はロヒンギャ問題の前向きな解決につながりうる戦略を持っている。それは今回の襲撃事件が発生する前日、8月24日に発表されたコフィ・アナン元国連事務総長が委員長を務める「ラカイン問題検討諮問委員会」による答申を生かすという方法である。

この諮問委員会は、昨年8月にスーチー国家顧問の肝いりで結成され、9人の委員のうち3人が外国人、ロヒンギャは含まないがムスリム2名が含まれるというメンバー構成だった。その委員会が1年間にわたるラカインとバングラデシュ双方での長期調査を経て、次のような前向きの答申を示したのである。

ひとつは、土着民族として認められていないロヒンギャに関し、三世代以上ミャンマー国内で居住している場合は国籍を付与すべきであるという進言である。もうひとつは、1982年に改正施行されたミャンマー国籍法の再検討を促すということである。

同法では国籍を3分類し、土着民族(全135)には自動的に「正規国民」の地位を付与するのに対し、インド系や中国系住民らを19世紀前半の第一次英緬戦争以降に入ってきた移民とみなし、彼らに「準国民」や「帰化国民」としての地位しか与えない仕組みになっている。この不平等な法律の再検討を諮問委員会は提言した。

注目すべきは、この提言はスーチー国家顧問が以前から望んでいた内容だったことである。まだ彼女が一下院議員だった2012年、インドを外遊した際の記者会見で同じ内容を語っており、また2013年4月に来日した際も、東京の人権団体代表らが参加した会議で同じことを語っている。

彼女としては、自分が先走ってこの見解を軍や国民に語っても説得は難しいと考え、アナン委員長に象徴される「国際社会の眼」もいれた第三者委員会に調査してもらい、同内容の見解を示してもらうことによって、現状の打破を狙ったものと考えられる。無論、この内容を軍や世論が受け入れるには相当な時間と工夫が必要であるが、世論を軟化させる材料とはなりえる可能性がある。

残念ながら、この前向きの答申が出された翌日未明、襲撃事件は発生した。これにより軍との協調の下、事件をテロリストによるものと断言せざるを得なくなった彼女は、アナン委員長のせっかくの提言が吹き飛んでしまうリスクを背負うことになった。しかし、彼女にとってこの提言は現段階でも大きな希望の灯であることに間違はない。

国際社会がとるべき2つの道

以上から、国際社会がとるべき道は2つに絞られる。ひとつは40万人近くにのぼる難民の保護に一致してあたることである。そこにバングラデシュ政府はもちろんのこと、ミャンマー政府も責任もって絡ませる必要がある。

ミャンマー政府は軍部を中心にこの事件をテロリズムによる主権侵害としてのみとらえる傾向があるが、それはそれとして、難民のこれ以上の流出防止と、流出難民への物質的・精神的保護にきちんと関わらせるべきだ。また、できるだけ早い段階で、帰還に向けた交渉に加わるよう促す必要がある。

もうひとつは、中長期的にアナン諮問委員会の提言を生かす方向でミャンマー政府がロヒンギャへの国籍付与に向けた政策をとることができるよう、国際社会としてスーチー国家顧問をバックアップすることである。国際社会が冷静さを取り戻し、この問題の本質的かつ現実的な解決に向けて何が必要なのかを考えれば、同顧問に対する非難のオンパレードをやめるべきことは明白だといえよう。

最後に在日ロヒンギャ人の声を紹介しておく。9月初旬の都心でデモをしたロヒンギャの一男性がテレビカメラに向かってしゃべったひとことである。

「私たちはいまでもアウンサンスーチー国家顧問を信頼しています」

ロヒンギャから信頼されているスーチー国家顧問を、国家顧問から辞任させるようなことがあってはならない。