女性の結婚率は、35歳を境に急激に下降する。

東京で、まことしやかにささやかれる言葉だ。

他にも、身体の変化、実家の問題、将来への不安と、目を背けたいことが増えてくる年齢でもある。

だがしかし。そんな悲観を抱くことは一切なく、麗しき独身人生を謳歌する女がいた。

恭子、35歳。

彼女が歩けば、男たちは羨望の眼差しで振り返り、女たちは嫉妬する。

恭子は一体、何を考えているのか?

外資系ラグジュアリーブランドで働く恭子の部下・周平は、恭子にそっと想いを寄せ、それに気づいてしまった元彼女・瑠璃子は気が気でない。

ある夜、周平は重要な話があると言って恭子を呼び出した。




僕は『Wine Bar 16℃』のカウンターで恭子さんを待ち続けていた。

時計の針は23時をまわろうとしている。こんな夜更けにも関わらず、僕が彼女を呼び出したのは、重要な話があるからだ。

僕の重大な決心、それは何を隠そう、他社への転職だ-。

そう、あれはひと月前の出来事-。

僕は一日中、デスクで頭を抱えていた。

本国・イタリアから急な要望を押し付けられ、お手上げ状態だったのだ。競合の他社ブランドの、マーケティング活動を調査して週末までに提出するようにという業務命令だ。

この調査を卒なくこなすためには他社の人脈が必要だ。しかし僕には、全くと言っていいほどツテが無い。

でも、恭子さんは違う。大手ブランドで積み上げたキャリアと、そこで手にした信頼という財産のおかげで、業界内の強固な人脈に恵まれているのだ。

そんな僕を見かねて、彼女は代わりに調査をまとめてくれた。恭子さんには朝飯前のように見えたが、彼女にだって彼女の仕事が山積みのはずだ。

毎度毎度、助けてもらっているどころか、むしろ足を引っ張っている。

彼女の魅力を知れば知るほど、自分がどれほどに幼稚で無力な男なのかを思い知らされるのだった。

イタリアオフィスとの電話会議を終えた恭子さんが、ディレクターと連れ立って会議室から出てきた。ほっとした安堵の表情で2人は頷き合っている。

やっぱり、彼女にふさわしいのは、ディレクターのような大人の男なのだろうか。

そんな矢先のことだった、それまでなんとなく登録していた転職エージェントから声がかかったのは-。


周平の転職を聞いた恭子。そして二人の最後の夜に起きた出来事とは・・・


男として、見て欲しい


店に到着した恭子さんは、僕の決意と報告を、顔色ひとつ変えることなく静かに聞いていた。

僕の転職先は、スイスに本社を構える、この業界の三大企業と言われるところのひとつだ。アシスタントマネージャーというポストに、年収はうまくいけば200万近くアップ。願ってもない話だ。

それでも恭子さんの足元には到底及ばないけれど、僕と彼女の間にある、天と地ほどの差を少しでも埋める第一歩としては、素晴らしい好条件だと思った。

もっと成長したい。経験も積みたいし、人脈も築きたい。そして、恭子さんに僕のことを、男として見て欲しい。

面接もトントン拍子でうまく行き、来月には入社することで話は決着した。

だけど、恭子さんは一体何と言うだろう。

恩を仇で返すのかといって怒るだろうか。いや、冷静な彼女に限ってそれはないか。それよりは、僕を失うことを、少しは悲しんでくれるだろうか…。

僕は、想定される恭子さんの反応を、何パターンにも渡って予測して、心の準備をしていた。もし何と言われても、決意が揺らぐことのないように。

ところが恭子さんの返事は、驚くほどあっけのないものだった。

「よかったじゃない、周平君。おめでとう!」

そう言って僕を嬉しそうに見つめ、心から祝福しているようだ。

なんだ…。

結局僕はどこかで、恭子さんが止めてくれることを少し期待していたのかもしれない。彼女の反応にすっかり拍子抜けしたのだった。



翌週、瑠璃子にも転職の話を打ち明けた。

「周平、なんで突然転職なんて…」

瑠璃子は、少し大袈裟すぎるくらいに悲しんで、大きな瞳を涙で潤ませながら、さっきからずっと僕の手を握りしめている。

しかし突然何かを思いついたのか、態度をがらりと豹変させて、狐のように目を釣り上げた。

「まさか恭子さんと何かあったの?」

僕は慌てて首を横に振る。

「いや、それは違うよ。今の仕事に不満はないんだ。ただ、僕も、恭子さんみたいに転職を重ねて、ステップアップしたいと思って…」

僕が言い終わらないうちに、瑠璃子はくすりと不敵な笑みを浮かべて言った。

「恭子さん、華麗なる転職みたいに言われてるけど、本当は違うらしいわよ」

怪訝な顔をする僕の耳に、そっと顔を寄せて囁く。

「前の会社、実際は追い出されるような形で辞めたみたい。噂によると、人事部の男性社員と何かあったらしいわ。間違いなく、男女関係の何か、でしょうね」



僕の最終勤務日は、あっという間にその日を迎え、夜には恭子さんと二人で食事に行くことになった。

六本木ヒルズの『37 ステーキハウス&バー』に早く着いたので、バースペースで飲みながら、食事の予約時間がくるまで二人で待つことにした。

「周平君、今まで本当にありがとう。新しい会社でも頑張ってね」

恭子さんはシャンパングラスを僕のグラスに軽くぶつけて、にっこり笑った。


周平と恭子の夜に、思いもよらぬ出来事が起きる・・・!?


突然現れた、無礼な男


恭子さんは嬉しそうに、僕と初めて会った時の印象や、一緒に乗り越えたトラブルなどの思い出話に浸っている。

「周平君は見た目がクールだから、勘違いされやすいけど、本当はすっごく努力家なんだよね」

恭子さん、それはあなたも同じだ-。

僕は今にも溢れ出しそうな感情をぐっと抑えて、黙って恭子さんの話に耳を傾けていた。

そのとき、背後から声をかけられた。

「恭子?誰かと思ったら恭子じゃん」




振り返ると、すらりとした長身の男が薄ら笑いを浮かべ、バーボンを片手に立っている。

恭子さんに目を遣ると、表情は凍りついているように見えた。

男は、僕を一瞥した。

「…ふぅん。新しい彼氏?」

恭子さんはぴしゃりと言い返す。

「部下よ」

すると男は意地悪そうに笑って、僕に名刺を差し出した。

「へえ…初めまして。恭子の下で働くのは大変でしょう」

その失礼な男から手渡された名刺には、恭子さんの前の会社の名前と、人事部マネージャーというポジションが書かれている。

しかし僕にはさほど興味がないようで、すぐに恭子さんに向き直った。

「恭子、噂は聞いてるよ。随分ご活躍らしいね。相変わらずその美貌を武器にして、うまくやってるんだろ。女はいいよなあ」

恐る恐る恭子さんの様子を伺うと、グラスを持つ手が小さく震えている。

僕は咄嗟に彼女に言った。

「恭子さん、出ましょう」

そして戸惑う彼女の肩をそっと抱いて、まだ何かを言いたそうにしている男の前を横切り、店を後にした。

僕の頭の中には、瑠璃子のセリフがこだまのように何度も響いていた。

-前の会社の人事部の男と、何かあったらしいわよ。

確かに、あの男と恭子さんの間に漂っていたのは、ただの同僚の雰囲気ではない。それだけは、鈍感な僕にもはっきりわかる。

「周平君、ごめんね。なんかぶち壊しになっちゃって。また改めて飲みに行こうね」

六本木ヒルズの、日比谷線に続くエスカレーターの前で、別れの挨拶をした。

「恭子さん、今まで本当にお世話になりました。それじゃあ、ここで」

僕は一礼をすると、まっすぐ歩き出した。

「周平君、待って」

僕を呼び止め、恭子さんが走って戻ってきた。息を切らして表情を僅かに歪めている。

そして、小さな声で言った。

「周平君、行かないで」

えっ?今、恭子さんは何と言った?

僕は言葉の意味がわからず、恭子さんと見つめ合ったまま立ち尽くしていた。

5秒、いや10秒が経過しただろうか。沈黙を破ったのは、恭子さんだ。

「…ごめん。冗談だよ。またね、周平君」

笑顔で言って、再びくるりと背中を見せた。だけど僕は咄嗟に腕を引き寄せて、気がつくと彼女を抱きしめていた。

恭子さんの髪や身体から漂う、甘くて官能的な香りが僕の鼻腔をくすぐる。

ああ、目眩がするようだ。ベルガモットの香りに酔いしれながら、僕はただ、彼女の身体をきつく抱きしめた。

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一歩関係が前進したかのように見えた、恭子と周平。しかし瑠璃子の魔の手が忍び寄る。