「暴走」は、時に礼賛される(画像:「東京朝日新聞」1931年9月19日付)

弾道ミサイル発射・核実験を繰り返す北朝鮮。海洋進出を進める中国。日本の安全保障を不安視する声が大きくなっている。このような状況だからこそ知るべき戦争の教訓とは何か。戦争体験者や軍事専門家に話を聞いてまとめた『丹羽宇一郎 戦争の大問題』を出版し、中国に精通している、元伊藤忠商事社長、元中国大使の丹羽宇一郎氏が解説する。

満州事変は「反中」の原点


今日、9月18日は86年前(1931年)に「満州事変」が起きた日である。私が大使として中国に駐在したときの印象では、中国人にとっては満州事変よりも「支那事変」の発端となった盧溝橋事件(1937年7月7日)のほうがより強く意識されているようだった。しかし、彼らにとって抗日戦争(日中戦争)とは、満州事変から日本がポツダム宣言を受諾した1945年までの15年間の戦いである。

満州事変は、日本と中国にとって15年にわたる長い戦争の幕開けだった。満州事変の翌年1月28日に起きた第1次上海事変、1933年3月の日本の国際連盟脱退は、満州事変をきっかけとして生じたことである。

満州国の建国によって、中国の対日ゲリラ攻撃(中国では抗日活動)はさらに頻発するようになる。中国政府との対立は深まり、当時の新聞には、「不法背信暴戻止まるところを知らぬ」と中国の行動を徹底的に非難する文言が躍った。

昨年亡くなられた元陸軍参謀、三笠宮祟仁親王(1915〜2016年)は、「支那事変に対する日本人としての内省」と題された論文の中で、日本人には「日清戦争頃よりの侮華思想」があるとし、日本人が内省すべき点であると指摘している。

当時の日本人は、中国人はわれわれよりも劣っている、劣っている彼らがわれわれに反抗するのは許せないという意識があった。事実、戦前の新聞は満州事変、日中戦争と事態が泥沼化するに従い、紙面に「膺懲(ようちょう)」の文字が躍った。「膺懲」とは実力行使で懲らしめるという意味である。「暴戻なる支那を膺懲すべし」「蔣政権を膺懲」という具合だ。

今日風に言えば、「中国はけしからんから、懲らしめてやるべきだ」ということである。こうした論調は、今日でも一部のメディアに見られる傾向ではないだろうか。

拙著『戦争の大問題』の取材でお会いした、元海軍特攻隊員で立命館大学名誉教授の岩井忠熊氏は、「94歳になって、こういう日本の姿を見るとは嘆かわしい。現代の日本社会の様子は戦前の日本に似ている」と述べられ、自国賛美の歴史修正主義的風潮に警鐘を鳴らしている。戦争体験者で、いまの日本社会が戦前に似ていると言う人は多い。

ファクトよりフェイクを喜ぶ日本人

当時の新聞は満州事変を快挙と報じた。独断で軍を満州に進めた朝鮮派遣軍司令官の林銑十郎(1876〜1943年)の行動は、統帥権の干犯であったにもかかわらず新聞は「越境将軍」ともてはやした。そのため軍の中央も処分をためらい、林はその後、総理大臣にまで上り詰める。

当時の新聞は、満州は「日本の生命線」であり、手放すことのできない重要な権益であると喧伝し、満州開拓移民を募り続けた。しかし、そのようにして資金と人を注ぎ込んだ満州の実態はどうであったのか。

「小日本主義」を唱えた石橋湛山(1884〜1973年)は、「日本の生命線」の持つ経済的な矛盾を次のように指摘している。

「貿易上の数字で見る限り、米国は、朝鮮、台湾、関東州を合わせたよりも、我に対して、一層大なる経済的利益関係を有し、<中略>米国こそ、インドこそ、英国こそ、我が経済的自立に欠くべからざる国と言わねばならない」

当時の朝鮮、台湾、関東州(満州)との貿易額は3地域を合わせて9億円弱である。湛山によれば同年のアメリカとの貿易額は14億3800万円、インドは5億8700万円、イギリスは3億3000万円だったという(金額はいずれも当時の金額)。


「我が国の総ての禍根は、しばしば述ぶるが如く、小欲に囚われていることだ。志の小さいことだ。〈中略〉朝鮮や台湾、支那、満州、またはシベリヤ、樺太等の、少しばかりの土地や、財産に目を呉れて、その保護や取り込みに汲々としておる。従って積極的に、世界大に、策動するの余裕がない。卑近の例をもって例えれば王より飛車を可愛がるヘボ将棋だ」

朝鮮、台湾、満州などは投資が先行するばかりで、リターンの少ない赤字プロジェクトだったのである。それが「日本の生命線」の経済的実態だった。湛山はそれだけでなく、当時の日本が朝鮮、台湾、満州に投資するよりも、まだ日本国内の資本を豊かにすべき段階の国であることも指摘している。

「資本は牡丹餅で、土地は重箱だ。入れる牡丹餅がなくて、重箱だけを集むるは愚であろう。牡丹餅さえ沢山出来れば、重箱は、隣家から、喜んで貸してくれよう」

つまり、満州経営は当時の日本の身の丈に合っていなかったということだ。しかし、湛山が指摘したこれらの事実に注目した日本人は少なかった。「満蒙は日本の生命線」(松岡洋右、1880〜1946年)、「王道楽土」などのスローガンばかりが人口に膾炙(かいしゃ)した。戦前の日本人はファクトに目を向けず、フェイクニュースに踊らされていたのである。

満州で終戦を迎えた人々の悲劇

「しかしてその資本を豊富にする道は、ただ平和主義により、国民の全力を学問技術の研究と産業の進歩とに注ぐにある」という、石橋湛山の言葉とはまったく逆の道を戦前の日本はたどってしまった。その結果、石油やスクラップなど重要資源の輸入を止められた日本はアメリカとも開戦、第2次世界大戦へ突入し敗戦に至ることになる。

ソ連に対する緩衝地帯という狙いもあったといわれる満州国は、終戦直前にソ連が参戦するとたちまち崩壊し、開拓民をはじめとする民間人に多くの犠牲者を出した。生きて日本へ帰った人も、満州から引き揚げる途中で塗炭の苦しみを味わった。

軍人も終戦後ソ連に武装解除された部隊は、ほとんどがシベリアに送られ、極寒の地での過酷な労働によって多くの人々が死亡した。元大蔵省事務次官で衆議院議員だった相沢英之氏はシベリアに抑留され、幸いにも日本に帰って来られたひとりである。

シベリアでは最初の1年が最も死亡率が高い。死因のほとんどは栄養失調だった。同じくシベリアに抑留された元関東軍の工兵だった與田純次さんによれば、シベリア抑留の1年目に3割が栄養失調で死んだという。零下40度のシベリアでは遺体も凍る。死後硬直ではなく、遺体が凍って寝たままの状態でピーンと伸びて固まってしまうのだ。

結局、満州事変によって建国された満州国は、日本を大戦へ向かわせるきっかけとなり、国際社会に認められないまま日本の敗戦とともに消滅する。

結果を知ったうえで、当時の日本の選択を批判するのは簡単だし、いささか卑怯(ひきょう)な気もするが、日本が大戦に至った経緯と敗戦時に満州に残された人々の苦労を思うと、なぜ日本は石橋湛山が主張するように満州を放棄できなかったのかという思いを抑え切れない。

現在に通じる満州事変の3つの教訓

当時の日本の指導者たちが満州を放棄できなかった理由は3つあると思う。

理由1:指導者が現場を知らなかった

伊藤忠商事に入って間もなく私はニューヨークに駐在した。そのとき役員であった瀬島龍造氏(1911〜2007年)から次のようなアドバイスをもらった。

「もし問題が起こったら、すぐに飛行機に乗って現地に行きなさい。おカネなんか気にしなくていい。それで会社から文句を言われるようなら、私に言いなさい」

問題は現場で起こり、解決策もまた現場にある。「すべては現場に宿る」のである。遠い日本から満州の実情を聞いていても、正しい判断はできない。

こういうと、満州国の中枢には日本人が多くいたし、関東軍も現地にいたのだから、現地を見ていなかったということはないではないかという異論があろう。しかし、国の政策を決定するのは日本国内の指導者たちである。彼らの耳には、現地の担当者からの報告しか入らない。

私は経験的にいって、不良資産や赤字などの悪い話は実際の3分の1程度しか現場からは上がってこないと見ている。トップ自らが現場へ足を運び、「最後は私が責任を持つから、すべて出しなさい」と働きかけて、初めて全容がつかめるのだ。

トップが何の働きかけもしなければ、現場は7割の悪い話は隠そうとする。むろん、隠そうとする現場に非があるのは間違いないが、隠させるトップにも非はある。

部下に隠しごとをさせるトップは、人に対する理解が足りないのだ。現場の人の気持ちがわからないということも、現場を知らないということである。当時の日本政府の中枢にいた指導者たちが、どこまで満州の実情を知っていたのか、大いに疑問である。

理由2:覚悟と勇気が足りなかった

一度始めた大型プロジェクトはなかなかやめられない。中止すれば、やめたトップの責任のみならず、プロジェクトの実行を決めたときのトップにも責任が及ぶ。責任を取るには覚悟と勇気がいる。私も伊藤忠商事の社長時代に、3950億円もの不良資産を処理したときには、もし、この結果、会社が倒産することになったら、私は一生後ろ指を指され続けることになると思ったものだ。

また、プロジェクトを中止すれば担当者からは強い抵抗を受ける。満州国にあっては、担当者は武装した関東軍である。政府中枢の要人といえども、場合によっては命にかかわるかもしれない。

当時の日本の指導者たちに、並々ならぬ覚悟と勇気が求められたことは火を見るよりも明らかである。しかし、310万人ともいわれる死者を出した戦争のことを考えると、このとき国の指導者により強い覚悟と勇気があればと思わざるをえない。

理由3:自らつくった世論に押し流された

先述したように満州事変は快挙であり、満州は日本の生命線であると新聞は報じ、国民はそれに歓喜した。軍も政府も、そうした世論を半ば追認し、半ば自らあおって対外政策を進めてきた。

満州国の実態については、ファクトを隠し、夢のある話や景気のよいスローガンばかりを流して世論をつくり、国民をリードしてきた手前、いまさら満州国は赤字で手放したほうが国際社会との関係も改善できるとは言えなくなっていたのだ。

国内には満州経営の不合理を見抜く識者もいた。当時の政府中枢周辺にも、湛山のような忠告をしてくれる人はいたはずである。しかし、そうした識者の意見は世論の勢いにかき消され、政策に反映されることはなかった。

世論をつくり、世論によって政治を進める手法は今日でも見られる。われわれは世論調査の支持率に目を向けるばかりでなく、世論調査の背景や世論の行き着く先についても注意を払うべきである。世論とは、一方で危ういものであるということも満州事変の教訓といえる。

力対力で解決しようとすれば必ず戦争になる

先述したとおり、戦争体験者が日本の現状を危惧する背景には、形は違えど北朝鮮に対する日本や中国の対応が戦前を彷彿とさせるからだろう。

北朝鮮のミサイルと核は由々しき問題であるが、『戦争の大問題』で述べているように、問題を力対力で解決しようとすれば必ず戦争になる。それが先の大戦を体験した先人たちが、身をもってわれわれに教えてくれたことだ。

北朝鮮に対しては圧力と制裁をもって臨むべきという意見が多い。かつて「対話と圧力」と言っていた人物まで、対話を忘れたかのように圧力と制裁が必要と繰り返している。確かに弾道ミサイルと核実験を繰り返す北朝鮮相手には、対話は手ぬるいように思えることもある。北朝鮮は周辺国に対して挑発的な態度を取り続け、対話のムードはみじんもない。われわれは、北朝鮮は言葉で言ってわかるような相手ではないと見限りがちだ。

しかし、そもそも利害の対立する両国で、初めから意見が一致しているはずがない。言ってわからない相手は、力で懲らしめるというのでは、満州事変から日中戦争へと進んでいったときの日本人の意識にほかならない。意見の違いを乗り越え、妥協点を見いだすのが対話の目的である。初めから言ってわからない相手と見下していては、対話は成り立たない。

お互いが相手を物わかりの悪い、話にならない国民と見下して、対話のための努力を放棄したのは戦前の姿そのものである。世論もそれに同調した。戦前の新聞紙面に躍った「不法背信暴戻止まるところを知らぬ」の文言や「膺懲」という文字は今日の新聞にはないが、論調はどこか似通っている。

私は、仮にも2500万人の国民を率いるリーダーが、対話もできないような野蛮人ということはありえないと思っている。対話する余地があるのに相手に“力”をかけ、窮鼠(きゅうそ)に追い込み対話を放棄することは、とても危険なことである。

日本は戦前の轍を踏んではならない。力対力は決して選んではいけない。日本人は、なぜ戦争が起こるのか、なぜ戦争を終わらせることが難しいのか、満州事変から終戦までの歴史をもう一度振り返る必要がある。それが、86年前に満州事変が起きた今日9月18日に、私が言いたいことである。