写真/時事通信

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 94年前の今日、9月16日、無政府主義者・大杉栄、その内縁の妻・伊藤野枝、そして大杉の甥であるわずか6歳の橘宗一が憲兵によって殺された。所謂、「甘粕事件」である。3人は憲兵隊特高課に連行された直後に惨殺され、その遺体は古井戸に投げ捨てられたという。関東大震災直後の混乱の中での出来事だった。

 軍部は、当初、この事件の隠蔽を図った。しかし、すでに大物アナキストとして名を馳せていた大杉だけでなく小児までもが惨殺されたとあって、世間の耳目が集中。当時のメディアが騒ぎ立てたちまち大スキャンダルに発展した。結局、軍部は、事件発生からわずか4日後の20日、東京憲兵隊渋谷分隊長兼麹町分隊長であった甘粕正彦憲兵大尉および他一名を、「職務上不法行為」の疑いで軍法会議に送致することとなる。

 軍法会議予審やその後の公判で甘粕大尉は、「私が応接室へ入って行きました時には、大杉は入り口を背中にして腰かけていました。私は静かに歩み寄って、右腕を大杉の咽喉にかけ、左手で大杉の掌を握り椅子からひきずり下ろしました。そして右足の膝を大杉の背中にあて、柔道の絞め手と同じかたちで、之を絞殺しました。大杉は非常に苦しみましたが、約十分にして絶命しました。森曹長はぼんやりして見ておりましたので、命令してばたばたする大杉の両足を押へさせました」等と、大杉の殺害について詳しく供述している。

 伊藤野枝殺害については「私は室内をぶらぶら歩き周りながら、『君等は、これ以上に世間が混乱するのを望んでいるのであろう』と尋ねました。すると野枝は微笑して、『考え方が違うのですから』というようなことを申しました」と、甘粕大尉と伊藤野枝の間で、若干の議論があったことを伺わせるような供述も残っている。この議論ののち、甘粕は大杉同様に野枝を絞殺した。

 もっとも甘粕の供述はこの後、とりわけ橘宗一殺しの手法などをめぐって誰かを庇うかのように二転三転し、後世、陰謀論を含む様々な憶測を生む要素となってはいる。しかし、「東京憲兵隊渋谷分隊長兼麹町分隊長であった甘粕大尉の職掌範囲において、甘粕を直接の命令者・実行者として、大杉、伊藤、橘の3名が虐殺された」事実は揺るがない。

 公判では犯行の動機は、「関東大震災の混乱に乗じて無政府主義者が朝鮮人を扇動して騒動を起こすという噂を信じていたため」と断定されるに至った。

◆軍法会議も「デマ」と断じた「朝鮮人武装蜂起」説

 ここで注目すべきは、甘粕事件の軍法会議判決が、「朝鮮人による襲撃」を「噂」と断じていることだろう。そして、さらにはその「噂」が憲兵をも突き動かし、いかに当時の憲兵であっても「職務上不法行為」と処断される「被疑者(大杉たちは被疑者ですらないが)の虐殺」という行為に至らしめたという事実であろう。関東大震災の発生は9月1日11時58分。それから2週間以上たっても混乱はつづいており、「朝鮮人襲撃」に関する流言飛語が、憲兵の判断をも誤らせる影響を与えていた何よりの証拠だ。

 関東大震災直後の混乱では、「朝鮮人が攻めてくる」「朝鮮人たちが井戸に毒薬を投げ込んでいる」などの流言飛語が飛び交い、各地で「自警団」が結成され、それらの手によって無辜の朝鮮人が大量に虐殺された。また、軍や警察までもがこの流言飛語を利用し、虐殺に加担している事例もある。被害者は朝鮮人に止まらず、関東地方の方言をうまく発音できない西日本出身者や、中国人労働者などにも及んだ。

◆国も認めている関東大震災時の朝鮮人虐殺

 中央防災会議(設置根拠法は災害対策基本法・議長は内閣総理大臣が務める)は、2008年に発表した『災害教訓の継承に関する専門調査会報告書』で、「犠牲者の正確な数は掴めない」「公式の記録で全貌をたどることはできない」としながらも、「当時の公的記録と公文書に依存した叙述を行う」と極めて抑制的な集計であるとした上で、関東大震災後の虐殺事件の被害者数を、朝鮮人488名、中国人3名、日本人87名と発表している。(参照:「中央防災会議」)つまり、関東大震災直後の朝鮮人虐殺は、国の防災政策を立案・企画する中央防災会議さえもが認める、歴史的事実なのだ。