純丘曜彰 教授博士 / 大阪芸術大学

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 大きな流れで言うと、近代というのは、ルネサンスより後、ナショナリズムより前。日本では、おおよそ戦国時代から明治維新までに当たる。中世までの宗教や政治の統一的で支配的な権威が崩壊し、個人の個性が解放され、多種多様な思想や芸術が花開いた。

 それまで、つまり、中世は、秩序に従い、ヒトと同じであることが求められた。この秩序に逆らえば権威から破門され、社会全体から放逐された。しかし、近代になると、秩序の根拠が疑われ、たとえ逸脱しても、これを討伐する総意が成り立たなくなった。つまり、やりたい放題。

 思想、とくに哲学において、これは大きな問題となった。以前であれば、聖書に書いてある、法王が言った、昔からそういうことになっている、で済んだ。ところが、コロンブスのようなのが、これまでの常識を覆し、西回りでも東のインド(ほんとうは新大陸だが)に行ける、地球が丸い、ということを実証してしまう。メディチ家のような商人が、法王の奇跡よりよく効くイスラムの薬を売り出してしまう。ルターに至っては、教会の言っていることがそもそも聖書とは違う、だいいち聖書に法王などという文言は無い、ということを暴き出してしまう。

 こんな時代に、デカルト(1596〜1650)が出てくる。ウラなりで引きこもりの嚆矢のようなやつ。親が金持ちで、学校ではよい子。貴族の倣いとして、軍隊に入ったものの、それは名ばかり。ドイツだの、イタリアだの、フランスだの、旅行して、結局、オランダに戻り、41歳まで引きこもり。

 とはいえ、彼なりにいろいろ悩んでいたらしい。いちばんの問題は、書物を閉じ、世界を見てこようとしたのに、どこへ行っても、結局、自分がついてきてしまったこと。自分自身から逃れられない。それも、その自分が世界の見方、書物の読み方にまで大きな陰を落としてしまっている。ひょっとして自分はおかしいんじゃないか、いつも悪霊に騙されているじゃないか、と神経衰弱。

 かといって、いまさら、聖書に書いてある、法王が言った、だから、まちがいない、などということは信じられない。そこで、彼は、自分の見識の中で、とりあえず怪しいものは、いったんぜんぶ排除してみよう、という「方法的懐疑」を試みる。自分で見た、聞いた、確かめた、なんていうのは、彼からすれば、もっとも当てにならない。それこそ、錯覚や誤解の宝庫。じゃあ、1+1=2みたいな、感覚に依存しない論理ならどうか。これも、たとえば、まちがって覚えている九九のように、論理そのものが歪んでいるかもしれない。しかし、このように自分が疑っている、ということそのものは、事実であり、真実だ。むしろ、疑う、ということで、そこに対象の世界とは別に、自分というものが立ち現れてくる。

 こんな話を書いた『方法序説』は、当時の大ベストセラーに。40も過ぎて、世界を疑え、もないものだが、同じ時代の人々も、同じようなことで悩んでいた。以来、なんでもかんでも、とにかくこれまでの常識を混ぜっ返したような奇妙奇天烈な世界観が大量に湧き出してきて、自称「哲学者」たちが、益も無い議論に数百年も明け暮れる。派を成し、国をまたいで、たがいに攻撃しあう。自分たちで、論理が当てにならない、と言っているのだから、理屈で言い争ったって、どのみち決着などあるはずも無いのに。

 さて、現代。第二次世界大戦でナショナリズムが潰えた後、思想的、社会的に、むしろ近代と似たような状況になった。戦前の権威が滅びて、なんでもあり。もちろんデカルトのような、引きこもりのオレ様も大量発生。それだけでなく、デカルト以降のようなオレ様集団、つまり、カルトが湧いて出て、政治的な、というより暴力的な闘争を繰り広げるようになってしまった。

 3%の塩水100ccに3%の塩水100ccを足し、さらに3%の塩水100ccを加える。さて、この300ccの塩水の濃度は? 計算するまでもない。3%のまま。つまり、バカが集まって評定したところで、脳ミソは濃くはならない。にもかかわらず、なにかというと、○○に賛成の連中だけが集まって「勉強会」だと。その一方で、○○に反対の連中だけが集まって「研究会」。賛成でも反対でも、バカはやることが同じ。

 個人の引きこもりは、見ればわかる。ところが、社会的に活動しているかのようなカルト連中も、じつは集団的な引きこもり。オタクが何万人集まろうと、オタクはオタク。世界から遊離した寄生虫。親のカネをむしり取ってきて、グルグル仲間内で廻して、紙クズの同人誌を作っているだけ。政党なんていうのも、同じような仲間が集まって、同じようなことを言って、仲間内しか読まないゴミチラシを助成金で刷って、異議無し、って、それは当然。しかし、そんなことをしていたって、世間一般の社会的な支持者が増えるわけがない。まして、地方や会社、国単位で、オレ様になって、自分たちの「理屈」だけで暴走していれば、いつかかならずツジツマが合わなくなり、悲劇的な破滅へ至る。

 引きこもりは、世間や現実と間尺と合わないのを、うすうす自覚していればこそ、部屋の中に引きこもっている。ところが、カルト連中は、自分の認識がほんとうに正しいかどうか、確かめようともせず、そうなはずだ、そうだよね、そうだよ、と、仲間内で言い合っているうちに、どんどんバカを悪化させる。相互依存の自己洗脳。おまけに、思想の自由、とか言って、天下御免の意見無用。そればかりか、自分たちの枠の限界にすら自覚が無いから、外にはみ出して、大声を張り上げ、まともな人々まで、罵倒し、攻撃し、吊し上げる。

 いくら大声で力説したって、事実でないものは事実ではない。現実でないものは現実ではない。常識でないものは常識ではない。だから、デモだの、テロだの、ミサイルだの、力づくで、常識を変え、現実を換え、事実を捏ち上げようとし、挙げ句は自分たちと違う考えの者を文字通り抹殺しようとする。しかし、そういう無茶をやるから、よけい嫌われ、集団まるごと、だれにも相手にされなくなる。

 党派の中の者ほど、その党派を疑うべきだ。自己溶解したまま、仲間内で会議を開き、集会を催し、連絡を取り合ったって、現実の道は開けない。現実は、妄想の向こう側にある。自分の妄想を自分で打ち破るのでなければ、いずれ外からまとめて叩き潰される。まあ、そんなわけで、連休にデカルトでも読んで、すこしはこれまでのありようを疑ってみてはどうか。


by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka. 大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。近書に『アマテラスの黄金』などがある。)