最近「『夕飯何食べたい?』が持つ理不尽さと、ベストな返答の考察」と題するブログ記事がネットで話題となった。「夕飯何食べたい?」のやりとりで起こる夫婦間のすれ違いを題材に、家事を「考える家事」と「行動する家事」に区別し、「考える家事」の負担が妻に偏りがちであると論じている。

この問題提起に、SNSを中心に多くの同意・共感が集まった。確かに「考える家事」と「行動する家事」というラベリングは的を射ている。日々家事に従事している人には、言語化しにくいモヤモヤの輪郭をにわかにハッキリさせられた感があるのだろうと思った。

■夕飯づくりはいつ始め、いつ終わらせるべきか

たとえば、私にはきょう、「夕飯を作る」というやらねばならない家事がある。小5の次女が18時から課外活動のバスケットボール、中3の長女が19時半から塾なので、17時に次女の分だけでもまず料理を食卓に並べなければならない。とすると、17時前にコメが炊きあがっていてほしい。コメはガスコンロで鍋炊きする方が旨いが、習い事に行った小1の三女のお迎えで16時半から外出するので、炊飯器は16時前にセットしなければいけない。

夕飯のメインとなるおかずは、小中学校の給食にかぶらないよう注意したい。ただ、きのう豚肉を使ったので、小学校の給食はシーフードピラフだけど、シャケで我慢してもらいたい。というわけで、玉ねぎとエノキとシャケをホイルに包んでオーブンに入れるタイミングは三女のお迎え前がベストであり、それまでに味噌汁ともう一品の調理も済ませてしまいたい。つまり逆算すると、他の家事(洗濯物の取り込み)と並行する原稿書きの仕事は、15時に切り上げないと、諸々間に合わない……。

……などなど、たかだか夕飯づくりだけにも、現状分析から段取り含めたあらゆる行動を決め、時系列でスケジューリングしていく「考える家事」と、「コメを研ぐ」「玉ねぎを切る」といった手を動かすだけで完結する「行動する家事」が存在する。料理にしても洗濯にしても掃除にしても、「行動する家事」は先んずる「考える家事」がなければ成立しないが、私たちはえてして「行動する家事」にのみ注目しがちのようだ。まあ実際、手を動かさないことにはどうにもならないのでそれは道理なのだけれども。

■「男性だから」できない家事はほとんどない

さて、こういったスケジューリング等々の「知的労働」から少しでも妻を解放しなければ、本当の「家事分担」とは言えないのではないか? 夫こそ「考える家事」を負担すべきでは? と件のブログの筆者は促している。「考える家事」の負担はあながちバカにならないので、そちらだけでも夫に振るべし、という発想自体はとてもいいと思う。ただその場合、「現場」の事情や状況を理解したうえでの采配か、机上の「ぼく・わたしの考えた最強の家事」的なものかで、だいぶ(家庭の)状況が変わってくるのではないかと私は懸念する。

その「家事」の物理的な負担、ボリュームは頭の中だけで測れず、「実際に手を動か」さないと把握しきれないことが多い。また、「きょうはこれこれをする」と綿密に計画していたとしても、家庭は往々にして、子どもの体調の悪化など突発的な出来事が起こる。そうなると、結果に相当のぶれが生じ得る。

子どもの年齢が小さいほど、予定や計画にかなり広い余白が求められる。参謀には「現場経験」が不可欠だと考える所以である。つまるところ、知的労働から「妻を解放する」のみならず、むしろ「妻を知的労働専門」にしてしまう、という選択肢が、ここにあってもいいのではないかと思う。

実際、重量級の買い物に要する腕力、真夏の洗濯物干しに際しての紫外線耐性、などなど家事の実働部隊として夫(男性)の方が適した場面は決して少なくない。食事作りにしたって世間のシェフの多くは男性である。「男性だから」向いていない、できないということは、育児も含めほとんどないのではないだろうか。家事の参謀となるべき立場、実働する立場を決めるには、性別ではなく夫婦自身の性格や適性、志向に合わせる方が適切なのではないか。別に妻でも夫でもどっちでもいいのだ。実際の労力をしっかり理解していさえすれば。

■知的労働としての「家事」

余談ながら、少々語弊があるのは承知で、「家事」が知的労働だと本気で思っている(もともと思っていた、そういう認識だった)方は、どれくらいおられるのかとても気になっている。おそらく、「家事」を日常的にこなしている人ほど知的労働としての側面を強く意識し、家事をしていない(誰か他の家族に任せている)人ほど「家事なんて誰にでもできる簡単なこと」だと少々安く見積もるか、軽んじておられるのではないだろうか。いかがですか。

「専業主婦」「家事手伝い」という肩書きを、あなたは知的に感じますか?「家事」は頭を使う、頭の疲れる営みだと思いますか? 家庭の中でとても見えにくいこの「考える家事」という労力が、ネーミングの妙で「見える化」された。このように「家事」にまつわる言説が、メディアやSNS界隈で多面的、かつ活発に交わされる現状は、ほんの20年前はありえなかった傾向であり、「家事」に関わる人がジェンダーレス化している証左でもある。素晴らしいことだと思う。

スケジューリングやマネジメントが得意なのか、もくもくと手を動かすほうが苦にならないのか。「考える家事」と「行動する家事」というワードをヒントに本音で話し合うところから、「我が家」の家事分担・家事シェアをあらためて組み立て直してみてはいかがだろうか。