小笠原忠幹画像(広寿山福聚寺蔵)

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 慶応元(1865)年4月、長州再征の幕命が出た。

 第2次幕長戦争、長州戦争、長州征討などと呼ばれる戦の始まりである。

 この幕命は、小倉藩が幕府に、「外国船が長州赤間関(あかまがせき)に出入りしている」と報告し、再征を進言したことによるとの噂が流れた。

 同年6月28日付と推測される、長州藩家老から小倉藩に出された書状がある。

 「万一確証の義これ無く候はば、取り計らい方もこれ有り候間、有無の義速やかに御答え成し下され度(たく)、御頼み致し候」

 長州藩領の下関などに外国船が入港・碇泊(ていはく)し、同藩と外国人が接触しているという確証の有無を問う手紙だった。うわべは丁寧だが、「取り計らい方もこれ有り」、「こちらにも考えがあるぞ」という脅し文句である。幕威が盛んな頃であれば、決して出されないであろう書状である。

 小倉藩が再征を進言したか否かは不明だが、幕府は、長州藩と外国人(特にイギリスとアメリカ)との接触を警戒していた。

 元治元(1864)年8月、長州藩と四国連合艦隊との下関戦争の講和条件として、長州藩が4カ国へ賠償金(300万ドル=日本の金で約150万両)を支払うことになった。だが、賠償金のやりとりで外国船が長州に出向くのは不都合があると幕閣は判断し、幕府が支払うことにした。そこまでしても、長州藩を諸外国と接触させたくなかったのだ。

 この講和で長州藩は、外国船の関門海峡通行を保障するなどの条件も認めた。

 長州藩家老は「やむを得ず停戦しただけで、攘夷を放棄してはいない」と、小倉藩に冒頭の書状を送り付けた。しかし、長州藩は攘夷を放棄し、外国、とりわけイギリスやアメリカ人から最新の武器や軍艦を入手し、幕府の軍事力に対抗しようとしていた。

 一方、小倉藩が幕府に長州藩と外国船接触の状況を報告していたことも、事実である。

 小笠原家は、外様大名監視のため小倉に置かれたのであり、幕府から与えられた任務を遂行したに過ぎない。とはいえ、初代藩主小笠原忠真の時代から江戸時代中頃まで、監視対象は九州諸藩、特に薩摩藩島津家であり、長州藩毛利家には、さして注意を払っていなかったようである。

 慶応元年4月20日、長州再征が実行される。幕府は14代将軍、徳川家茂の進発を布達した。「将軍が大坂まで出陣するだけで、長州藩は降伏するであろう」。そんな幕閣の見通しは外れた。そこで11月21日、長州藩領に5つの攻口から進攻する割り振りが発表された。攻口は後に4つに変更される。

 小倉藩主小笠原忠幹(ただよし)は、小倉新田(しんでん)藩主小笠原貞正、播磨国安志(あんじ)(兵庫県姫路市安富町)藩主の小笠原幸松丸(のちの貞孚(さだざね))らとともに、下関口の先鋒を命じられた。貞正は支藩主、幸松丸は忠幹の長男である。

 だが実は、藩主忠幹は9月6日、39歳の若さで、小倉城で亡くなっていた。

 戦端が開かれそうな状況下で、藩主の喪を公表するのは憚(はばか)られ、伏せられた。跡を継ぐべき次男の豊千代丸(のちの忠忱(ただのぶ))は数え年でわずか3歳であった。

 結局、小倉藩と長州藩の戦争が終結した後の慶応3(1867)年6月2日までの2年近く、忠幹は病に臥せているが存命ということにされた。もっとも、真相は世間には知れ渡っていたようだ。

 小倉藩士にとってさらに、つらいことがあった。慶応2(1866)年8月1日の小倉城自焼の際、ひそかに城内に仮埋葬されていた忠幹の遺骸を、藩士が運び出すことができなかった。藩の重臣らは、大庄屋(おおじょうや)の片野(中村)平次郎に命じて、同年11月3日の夜、長州勢が占領する小倉城内に潜入させ、忠幹の遺骸を運び出させたという。

 長州藩から目の敵にされていた小倉藩は、藩主不在、3歳の幼君を守り立てるという険しい状況で、長州藩との戦いに臨むことになる。