フリーランスの時代も楽しい思い出があるはずなのに、思い出せない」と安藤さん(写真:村田らむ)

これまでにないジャンルに根を張って、長年自営で生活している人や組織を経営している人がいる。「会社員ではない」彼ら彼女らはどのように生計を立てているのか。自分で敷いたレールの上にあるマネタイズ方法が知りたい。特殊分野で自営を続けるライター・村田らむと古田雄介が神髄を紡ぐ連載の第10回。

かの特撮の名作『ウルトラセブン』には、再放送やDVDなどで意図的に省かれ続けている幻の放送回がある。「遊星より愛をこめて」。この回に登場した異星人に付けられたある説明文が物議を醸したのだ。

手塚治虫の名作『ブラック・ジャック』には、「快楽の座」という、『週刊少年チャンピオン』には掲載されたものの、一度も単行本に収録されていない回がある。アニメ化された藤子・F・不二雄の人気作品『ジャングル黒べえ』は、理由不明のまま表舞台から姿を消している。『ちびくろサンボ』が復活したにもかかわらず――。

「なかったこと」にされた作品たちにスポットを


この連載の一覧はこちら

一度はメディアに露出したものの後日なかったことにされたこれらの作品を「封印作品」と呼び、封印された経緯を丹念に調べ上げて再びスポットを当てたのが安藤健二さん(41)だ。緻密で執念深い取材に裏付けられた真相解明の手腕は高く評価され、第1作『封印作品の謎』は累計3万部のヒットを記録。以降の封印作品ブームを牽引する旗手として知られるようになる。

2004年に産経新聞社を退社し、ノンフィクション作家としてデビューした安藤さんは、現在「ハフポスト日本版」の正社員ニュースエディターとして活躍している。かつては作家として一生食べていくことを夢想した。いまは「自分は会社員のほうが向いている」と語る。

安藤さんはフリーランス時代に何を得て、会社員時代にどんなレールを走ってきたのか。勤務先にほど近い、JR山手線・御徒町駅近くのレストランで話を聞いた。

安藤さんは1976年埼玉県浦和市(現さいたま市)生まれ。父母ともに教師の家庭に次男として誕生し、勉強熱心な環境で育った。小学4年生の頃から東大入学を見据えて進学塾に通い、スパルタと名を馳せている都内の中高一貫の男子校に入学。そこから改めて受験勉強漬けの6年間を過ごす。

この期間は、『ドラえもん』の単行本をすり切れるほど読んだマンガ好きな少年にとって「冬の時代」でしかなかったようだ。「仲のいいクラスメートはいましたが、マンガや音楽などの趣味が合う友達は少なくて寂しかったですね。女子校とコンパするグループもいましたけど、そっちには入れませんでした」。

春はキャンパスライフとともにやってくる。第2志望で受けた早稲田大学に入り、1980年代テクノポップやマンガなどのサブカルチャーについて話し込める仲間にようやく出会えた。東大に落ちたことでむしろ肩の荷が下り、広がっていく視野で世の中を眺めながら、将来は社会学の研究者になりたいと漠然と思うようになっていった。世間が酒鬼薔薇聖斗という猟奇殺人の犯人の話題で持ちきりになったのはその頃(1997年5月〜)だ。

情報の封印に芽生えた疑問


パソコンには小学生の頃から触れており、ネットもパソコン通信を経て黎明期から親しんできた口だ

当時未成年である犯人の顔写真や実名を載せた写真週刊誌は流通拒否に遭っていた。安藤さんはそこに疑問を感じ、どうにか週刊誌を入手し、自らホームページを立ち上げてコピーした顔写真を公開。ネットで発見した実名も一緒に掲載した。

ホームページの名前は「反動!」という。すぐにアングラ掲示板で目をつけられ、所属大学や住所などがさらされたが、2週間しないうちにサーバーからの削除指示が届くまではこちらもさらし続けた。

その後も「反動!」は少年法やプライバシーについて論議する場として存続し、いつしかアングラ掲示板の住人とも盛んに交流するようになっていた。ネットで起きていることを取材する記者になりたい。大学3年の就職活動の時期を迎えた頃、社会学の研究者という夢の隣にそんな思いがうっすらと浮かぶようになっていた。そして、産経新聞社にエントリーしたところ内定がとれた。

「履歴書にもURLを載せていましたが、面接で聞かれることはなかったですね。また2000年にもなっていない時代で、インターネットがどういうものかあんまりわかっていなかったんでしょう」

産経新聞社に入ると、できたばかりのデジタルメディアを扱う部署に配属された。しかし、思い描いていた取材の機会はなく、待っていたのは、ひたすら紙面用の記事をコピー&ペーストしてサーバーにアップしていく単純作業だった。

ネットの優先順位が紙のはるか下だった時代だ。新入社員の希望や提案など通るべくもない。趣味でやっているアングラ掲示板の管理などで気を紛らわしながら、退屈なデスクワークをこなす日々は2年以上続いた。

転機は2年目に訪れる。上司から「修業をしてこい」とさいたま総局への異動を命じられ、ようやく記者として活動できるようになった。いろいろなところを取材して記事を書く楽しさを味わい、華の時代だったと振り返る。しかし、ここで後々まで引きずる苦い経験をすることになる。

2002年、埼玉県は当時猛威を振るっていた病原性大腸菌O157の感染の予防を目的として、教育ソフト「O157予防ゲーム(仮)」を作って県内の教育機関に配布しようとしていた。デザインは県内の美少女ゲームメーカーが担当し、登場するキャラクターも18禁ゲームからの流用だった。現場では誰もがそれを承知していたが、安藤さんが書いた記事が発端となって県民に問題視されるようになり、ついには県が監修を降りる事態に発展してしまう。

「記事では18禁であることは伏せましたが、自分の記事がきっかけでヘンに目立ってしまったのは確かです。ゲーム自体は制作側が単独販売にこぎ着けましたが、情報を封印することに反発してサイトを立ち上げた自分が封印を助長する側に回ってしまったことがショックでしたね」


「O157予防ゲーム(仮)」のエピソードは、処女作『封印作品の謎』の最終章にまとめられている(撮影筆者)

これ以降、封印作品について調べる意識を強く持つようになる。会社勤めをしながらこのテーマで本が出せたら最高だ、と。

2年半の地方記者生活を経て、2003年には元の部署に戻された。再び退屈な日々。「反動!」はすでに活動停止していたが、今は別のライフワークがある。企画を太田出版に持ち込んだところ、色よい返事がもらえた。泊まり勤務の翌日は封印作品の取材に使い、スキマ時間はひたすら執筆に充て、この時期に『ウルトラセブン』の封印回である「遊星より愛をこめて」の章を書き上げている。

どう頑張っても両立はできない

心は充実していたが、余力以上の精力を注いだことで、本業ではミスが目立つようになってきた。上司からにらまれるようになり、最終的に人事部に異動させられてしまう。仕事の内容は記事からより遠くなり、泊まり勤務もなくなって平日に取材することもできなくなった。執筆計画も暗礁に乗り上げ、ストレスからくる発熱で寝込むこともあった。

「どう頑張っても両立はできない。ここではじめて、本をあきらめて会社員を続けるか、会社員をあきらめて本を取るかの二択になりました。それで、ここまで書いたんだし、人生勝負に出ようと後者を選んだかたちです」

直前まで会社を辞める気がなかったため、独立のための貯金などしていない。退職金もいまの勤続年数では2万円しか入らないらしい。ただ、クルマを売ったおカネなどでたまたま手元に160万円ほどあり、「節約すれば20万円で8カ月暮らせる」と算段できた。

辞意は誰にも相談せずに決めた。したことは報告だけだ。両親や同僚からは強く反対され、太田出版の編集者からは「え! 辞めちゃったの!?」と驚かれた。しかし、もう後には引けない。新聞社を去った2004年2月からの8カ月は取材と執筆にのめり込んだ。子どもの頃から本を執筆することにあこがれがあったし、類書のない本でヒットする自信はあった。そして何より、8カ月でアウトプットしないと何者でもなく終わるという怖さが胸にあった。

そうして書き上げた『封印作品の謎』は、予定どおり2004年9月に出版され、期待どおりかそれ以上のヒットを記録する。

「でも、印税が振り込まれるまで数カ月かかると後から知って青ざめましたね(笑)」

当面の生活資金は雑誌記事の執筆などでしのぎ、とにもかくにも、ノンフィクション作家としての生活がスタートした。

印税が振り込まれてからは雑誌の仕事はほぼ断り、書き下ろしの単行本の収入のみで食べていくスタイルを基本とした。2005年2月に『封印された『電車男』』、2006年2月に『封印作品の謎2』と太田出版から2冊出し、2008年5月に『封印されたミッキーマウス』、2008年11月に『封印作品の憂鬱』と洋泉社から刊行している。


封印作品シリーズ。2016年から2017年にかけて文庫版も刊行された(写真:村田らむ)

スタートダッシュはよかったものの…

「1年に1冊は出そうと決めていました。企画としては自分で持ちかけたもの(1、2、憂鬱)と、編集部から企画されたもの(電車男、ミッキーマウス)が半々ですね。スタートダッシュがよかったのでそれだけで食べていけるのはありました。ただ、それを超えるヒットは結局出せなかったので、中学高校の成績と同じで、最初はよくてその後が駄目っていういつものパターンに陥った感じですね」

印税収入は発行部数に直結する。第1作を超えるヒットがなく、ほかでも仕事をしないということは、その後の生活資金が右肩下がりしていくことを意味している。それでも新聞や雑誌の連載を引き受けるなどして2007年まではどうにか食べていけたが、2008年に入るといよいよ貯金が底をつき、家賃の支払いが困難に。『封印作品の憂鬱』の印税支払いを前に、住まいを引き払うしかなくなった。

「フリーランスの仕事の仕方としてはあまりよくなかったと思います。本当に自転車操業で持続性がなかった」

産経新聞社を辞めて6年。ノンフィクション作家で食べていくスタイルは、実家に寄生せざるをえなくなって断念するしかなかった。『パチンコがアニメだらけになった理由(わけ)』をどうにか書き上げた後、就職活動を始める。

「いろいろ調べていくと、35歳を超えると再就職が厳しくなると。当時は34歳でしたからぎりぎり間に合うと思って急いで受けました。ただ、ノンフィクション作家で6年こもっていた奴なんて面倒くさそうというのは自分でもわかります。正社員がよかったけど、執筆や編集に携われるなら何でもいいというつもりで受けましたね」

案の定、正社員採用の案件は書類審査の段階で落とされた。唯一通ったのはライブドアの「BLOGOS」編集部のアルバイト。背に腹は代えられず、次作が刊行される2カ月前の2010年9月から働き始めた。

次のステップに進むためにも逃げるわけにはいかない

しかし、暮らしは楽にならなかった。週3のつもりで面接を受けたが、週5で入ることを頼まれ、当時受けていたライター仕事をいくつか終わらせていたし、後に契約社員となった後は残業代も出なくなった。平日に自分の時間が作れなくなり、裁判の傍聴コラムという最後に残った新聞連載も終わらせるしかなかった。

「後で話を聞くと、同じくバイトで放送作家を兼業している人はそちらの時間を確保するために週3で契約していました。でもあのときはとにかく焦っていて、そんな交渉できる余裕がなかったんですよね」

職場の人間関係でも胃が痛い思いをした。先輩アルバイトから目をつけられ、ミスしたら全社員メールで告げ口されるなどの嫌がらせを受けた。それでもおよそ1年間耐えしのいだ。現在の自分が働ける職場がそうそうないことは就職活動を通して身にしみていたし、次のステップに進むためにも逃げるわけにはいかないと思っていた。

ドワンゴの報道チームへ転職したのは、東日本大震災の後のことだ。当時ドワンゴは調査報道を積極的に行っており、震災現場で目の当たりにした精力的な取り組みに強く惹(ひ)かれていた。満を持して中途採用フォームに履歴書を送ったところ、すんなりと書類審査を通り、面接では著作を知る上層部から好意的な評価を受けた。「BLOGOS」での勤務実績は「面倒くさそうなノンフィクション作家」というマイナス要素を消し去り、取材者としての実績が正当に評価される効果をもたらした。そういえるかもしれない。

ところが、喜んだのもつかの間。転職後しばらくして、ドワンゴは「われわれはジャーナリズムではない」という宣言を出すのと前後して、報道部門を大幅に縮小する。30人いたスタッフのうち10人はクビを切られ、安藤さんの採用面接を担当した上司も責任を取って退職。安藤さんもこのまま在籍するか、再びフリーランスに戻るか二者択一を迫られることになる。

と、そこで第3の選択肢が現れる。「BLOGOS」時代の上司が「ハフポスト日本版」(当時は「ハフィントンポスト日本版」)を立ち上げるプロジェクトの中枢におり、タイミングよくそちらに誘われたのだ。渡りに船。産経新聞社以来の正社員として、立ち上げ部署に配属されることになった。2013年4月のことだ。


「ハフポスト日本版」にある安藤さんのページ

そして現在。安藤さんが同編集部に所属して4年が過ぎた。職場ではニュースエディターとして取材活動に明け暮れ、充実感を得ながら仕事している。収入も安定し、住まいは都内賃貸に移った。現在の生活を踏まえ、フリーランスだった日々をこう振り返る。

「フリーランスの時代はつらかったです。自己管理ができなくて昼夜逆転することもよくありましたし、何より不安が大きかったです。原稿を書いているときに『このまま本を売り続けて本当に生きていけるんだろうか』と発作的に強く思ったり。知らない土地に取材に行ったときに、急に『自分は何をやっているんだろう』と考えたり。

終日カフェで原稿を書いていたある日、『領収書をください』がこの日の唯一の会話だった自分に気づいて愕然としたこともあります。とにかく寂しくて不安で、つねに何かのベールに覆われているみたいな感覚に覆われていた気がします」

会社に属してからの生活は孤独感も不安感もない。しかし、かすかな物足りなさも感じているという。

「書きたいことが書けないというところはどうしてもあります。フリーのときのようにほかの人がやっていないことを形にしている、自力で生きているという感覚は薄くなりましたね」

この気持ちは、最近になって社内に導入された自由時間という制度が埋め合わせてくれるかもしれない。一定時間内なら自分の好きなように取材できる取り組みで、社外に出掛けることも認められる。社員でいながらにして、封印作品の取材をすることも可能だ。

まだ総論が書けていない

「前々から封印作品に関する取材はやろうと思っていてできていませんでした。フリーランスのときのような切迫した欲求が芽生えず、つい後ろ倒ししていましたが、つい先日から自由時間を使って取材を再開しました。9月には記事が『ハフポスト日本版』に掲載されると思います」

フリーランス生活の晩年、封印作品の調査は安藤さんにとってつらいものになっていた。封印パターンが見えてくるようになり、新規の作品を調べていても過去の取材に似た結果が透けるようになった。文章の構成も自己模倣のようになり、新しい発見ができなくなっていたという。その鬱屈としたつらさは、時間や環境が大幅に解消してくれた。

「自分のなかでは、封印作品シリーズはまだ不完全燃焼の部分があるんですよ。単体のルポはいくつか書いてきましたが、封印作品とは何なのかという総論が書けていないんです。いつか封印作品を通して、日本におけるタブーとは何なのか、逆説的に日本の社会や精神の構造はどうなっているのか、といったことをつまびらかにしたいと思ってます」

それを「ハフポスト日本版」の安藤健二として世に出すのか、ノンフィクション作家の安藤健二として発表するのかはまだわからない。ただ、再びフリーランスに戻るとしたら、「予算管理や諸々のマネジメントをやってくれる人が必要ですね」という。安藤さんは「ちょうどいま婚活中だ」と笑った。