これを単純に「希望」と名づけていいのだろうか。浅野忠信演じる主人公・信の表情を見つめていて、なんとも形容しがたい感情に襲われた。でもそれでいいのだろう。その先が希望だろうが希望じゃなかろうが、人生は続き、家族は続いていく。

 『幼な子われらに生まれ』は、重松清原作、荒井晴彦脚本、三島有紀子が監督を手がけた映画である。主人公・信には、年に4回だけ会える実の娘と、一緒に暮らしている妻の連れ子の娘が2人いる。一見、仕事より家庭優先の優しいパパを装い、家庭の平和は保たれていたが、田中麗奈演じる妻・奈苗の妊娠により、表面だけ取り繕ったツギハギだらけの家庭は次第に壊れていく。

 冒頭、色とりどりの複数のレールに目を奪われる。やがて聞こえてくるのは子供たちの声。週末の遊園地、「パパ早く」「パパ遅い」「パパソフトクリーム買って」。ここではたくさんのパパたちがそれぞれに家族サービスに勤しんでいる。その1つのレールにしゃがみこみ靴紐を結び直す信は、まるでクラウチングスタートで走り出す直前のようにも見えるが、彼もまたそのパパの1人であり、小学6年生の実の娘・沙織(鎌田らい樹)と会う特別な1日を前にひときわ嬉しそうでもある。たまにしか会えない2人の姿はまるで恋人同士のようで、観覧車の中で交わす2人のやりとりは、互いが共に暮らす家族の話題に触れるたび少しだけ凍りつく。

 このレールのイメージはその後も続く。信の通勤する電車が通過するレール、彼の自宅へと続く斜行エレベーターのレール、同じく自宅へと続く長い階段、寺島しのぶ演じる前妻が運転する車に乗りながら青春時代を振り返る時に通過する光景、勤務先の倉庫で機械の音声に従って配送作業を淡々と行う彼のロボットのような仕事における、1本のレールの上を流され続けているようなイメージ。サラリーマンとして父親として、様々な煮え切らないことを受け入れながら、男たちの行列に紛れて生きる彼の人生は、このまま変わらず続いていくのだろう。

 信の家は、彼の視線から見ているせいかホラー映画のようだ。田中麗奈演じる専業主婦の妻・奈苗が、胎教にいい音楽を流しながら、顔にパックを貼り、ヨガをしながら、妊娠してから無性に飲みたくなるという炭酸をガブガブと飲み、満足げに微笑む。その姿は何の変哲もないリビングで寛ぐ妻の姿とも言えるが、何でも夫に依存し、女の嫌らしさを時折漂わせる彼女の性格も相まって、言い知れぬインパクトと恐ろしさがある。

 母親の妊娠と多感な時期が重なったことで、実の父親ではない信のことを否定し、部屋に鍵をつけようとする小学6年生の長女・薫(南沙良)が、暗い側にある部屋から廊下を経て明るいリビングに現れる時の、なにをするかわからない不穏な怖さ。彼女はまだ、回想で登場する、暴力をふるう実の父親と共に暮らしていた過去の部屋の暗さをそのまま引きずるように、陰鬱な影と共にある。次女・恵理子(新井美羽)が自分たち姉妹に例えていた金魚2匹の死と、彼女が、生まれてくる3人目の子供を想像して書いた妹と弟の絵。その絵の「妹」は、生まれてくるのが弟とわかった時に金魚と共に埋葬される。それは、見せかけの家族の崩壊を示すと共に、無邪気で奔放な次女が垣間見せる残酷さもまた暗示している。信が妻に向かって「わかんないよ」と激昂する場面があるが、目に見えて軋みはじめる家族の姿は、歯止めがきかない。 それでも家族と向き合い続けようとする信の姿もまた、単に苦難に耐える可哀想なお父さんというわけではない。寺島しのぶ演じる彼の前妻に「理由は聞くくせに気持ちは聞かないの、あなたって」と言われる場面があるが、彼は頑固でどこか冷徹で、揺るがないと言えば聞こえがいいが、どこまでも変わらない男なのである。終盤にいくにつれ、その本性が抉り出されていく様は、浅野忠信の熱演含め、必見である。

 一方、妻・奈苗の元夫・宮藤官九郎演じる沢田は、家庭というホラーから逃げた男だ。妻子に暴力をふるい、競艇にはまり、ありとあらゆることをして奈苗と、奈苗がもたらす「平凡な家庭」というホラーから逃げ出した。それでも彼がどうにも愛おしく感じてしまうのは、わずかに滲みでる不器用な愛と、信とは180度違った形の優しさと誠実さなのかもしれない。テレビドラマ『カルテット』でも松たか子との平凡な生活に幻滅して失踪した夫を演じた宮藤官九郎が好演している。

 明るい光のもと、まだ小さかった長女・薫が乗ったブランコが揺れる。まだ父親ではない、「ママの一番仲良しのおじさん」だったころの信が、そのブランコを優しく揺らしている。その場面こそがこの映画の中の、ノイズのない純粋な希望だ。人はなぜ家族になるのだろう。なぜ、尋常じゃない苦労と我慢を受け入れてまで他人同士が一緒に暮らすのだろう。やっかいな彼らの、傷だらけの再生は、家族の多様性が増す今、観客の心にズシリと突き刺さってくる。(藤原奈緒)