江戸幕府 14代将軍・徳川家茂と皇女和宮の夫婦愛が切なくて胸キュン♡

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幕末の動乱の最中に江戸幕府14代将軍に就任した徳川家茂。彼の正室が皇女和宮親子内親王であることは有名です。

徳川家茂像(Wikipediaより)

出会うはずもなかった2人が結婚したきっかけは井伊大老の暗殺後、老中に就任した安藤信正らが提唱した「公武合体政策」。ペリー来航以来権威が失墜してしまった幕府は、朝廷と仲良しアピールで威信回復したい狙いがありました。その象徴として、江戸幕府将軍家茂と孝明天皇の妹である和宮、弱冠17歳の2人が結婚することになったのです。

和宮親子内親王の肖像画(Wikipediaより)

家茂は教科書でこそ取り上げられることは少ないですが、誠実で責任感のある好青年で、勝海舟も惚れ込むような立派な将軍でした。彼がプライドの高い和宮を尊重して、まめに手紙を書いたり、お土産をプレゼントしたり温良篤厚に接したので、和宮も心を開き、周囲も認める相思相愛の夫婦になりました。

成人した歴代将軍の中で、側室を1人も持たずに正室1人を大切にしたのは家茂だけでした。ちなみに和宮は想像妊娠するくらい家茂に惚れ込んでいたようです。

そんな2人に悲劇が訪れます。1866年7月20日。家茂が21歳で第2次長州征伐のために大阪まで遠征した際に、脚気で亡くなってしまうのです。わずか4年の結婚生活でした。行動力のある家茂は江戸幕府将軍としては異例で3度も遠征に出掛けていたので、一緒に過ごせた時間はさらに短かいものでした。

やがて大坂城から江戸城の和宮のもとに、家茂の遺体と、なんとお土産にお願いしていた西陣織が届きました。家茂は具合の悪い中、和宮へのお土産だけは忘れず先に買っておいてくれたのです。和宮は家茂の死を大変嘆き悲しみ、その西陣織の反物を袈裟に仕立てて和歌を添え、増上寺に寄贈しました。

「空蝉の 唐織衣なにかせん 綾も錦も君ありてこそ」

立派な西陣織の贈り物も空しいばかりでどうすればいいのしょう、おしゃれしたのも大好きなあなたがいたからだったのに・・・。

和宮は他にも、「許されるならば三途の川を一緒に渡りたい」といった意の和歌を詠んだようです。和宮は二十一歳の若さで落飾し、以後は「静寛院宮(せいかんいんのみや)」と名乗ります。

静寛院宮となった彼女は、幕末の情勢不安の中、「御所に帰ってきなさい」という実家の説得を断り、家茂の愛した徳川家を守るために尽力します。そして姑の天璋院(篤姫)と協力し、江戸城総攻撃の回避に成功するのです。

明治時代になってからは明治天皇の叔母として尊重された静寛院宮でしたが、明治10年、奇しくも家茂と同じ脚気の病により、32歳の若さで亡くなってしまいます。「将軍様のおそばに」が遺言だったといいます。

静寛院宮は遺言通り、家茂の眠る増上寺で、まさに家茂の隣に埋葬されました。昭和の改葬時もその遺言は守られ、今でも夫婦は仲良く隣に眠っています。