日本も世界も不倫ブーム?

不倫疑惑報道が元で、民進党の山尾志桜里議員が離党した。週刊誌報道をきっかけにして、ワイドショーでは連日のように長い時間を取って取り上げている。

また、7日夜の離党会見は、一方的に原稿を読み上げて「男女の仲」を否定しただけで、質問をまったく受け付けないというスタイルに批判が集中している。

一言で言うと、この会見は最悪だった。おそらく逆効果となるだろう。騒動は沈静化するどころか、今後ますます「真相」を暴露するための過熱報道に油を注いだ格好となるのではないだろうか。

さらに、想定される最悪の結果として、既に息も絶え絶えである民進党の息の根を止めるような結果に結びつくかもしれない。

思えば、昨年初めのベッキーの「ゲス不倫」以降だろうか、タレント、政治家などの不倫報道がワイドショーやニュースを連日のように賑わせており、もはや食傷気味である。

朝日新聞デジタルによれば、民放が不倫報道にどれだけ時間を割いたかを調べたところ、2014年、2015年は、20時間程度であったにもかかわらず、2016年には170時間を超え、今年は既に120時間に達しているという。

このような騒動を見て、嘆かわしい世の中だと嘆息する人もいるだろうし、「不倫がブームになっている」ととらえる人もいるだろう。

一方、週刊誌が売り上げを伸ばし、ワイドショーが視聴率を稼ぐための恰好のネタとして、次々と「獲物」を見つけては血祭りに上げているに過ぎないようにも見える。

ニュースになるのは有名人ばかりだが、一般の人々の間でも不倫は盛んであるようだ。確かに不倫ブームなのかもしれない。

カナダ発の既婚者向け出会い系サイト「アシュレイ・マディソン」は、「人生一度は不倫をしましょう」というキャッチフレーズで注目を集めたが、会員数は世界30ヵ国、2,200万にも上るという。2015年には登録者の個人情報が漏洩する事件があり、アメリカでは多くの政府、軍関係者などが会員であることが発覚したという。

わが国の場合、同サイトによれば、開設以来会員数が10万人を超えたのは、日本が一番早かったという。現在は数十万人の会員がいるとされている。もちろん、「主催者側発表」であるし、多くの「サクラ」もいるであろうから、真偽のほどはわからない。

また、不倫ドラマ『昼顔』のヒットに続き、2016年から今年にかけて、『あなたのことはそれほど』『屋根裏の恋人』『奪い愛、冬』など、不倫をテーマにしたドラマが続々と作られた。主人公に自分を重ねて禁断の愛を追体験するのが好きな人々がたくさんいるということなのだろうか。

不倫に対する「不寛容さ」

しかし、一連の不倫騒動を見ていて、私は何か釈然としない気持ちになる。

それは、これだけ「不倫ブーム」である一方で、不倫報道に見る人々の不倫への「不寛容さ」である。誤解のないように強調したいが、何も不倫くらいいいじゃないかと言いたいのではない。

民進党には端から期待していないが、よりによって新代表誕生という党勢回復の大事な時期にスキャンダルを起こした山尾議員の軽率さ。妻の妊娠中に浮気を繰り返し、その後ろめたさからなのか、「イクメン」を気取っていた宮崎謙介元衆議院議員。

妻ががん闘病中だというのに不倫を重ね、わけのわからない軽薄な釈明会見でお茶を濁した俳優の渡辺謙。議員としての仕事も勉強もろくにしないで、新幹線で既婚男性と手をつなぎあられもない顔をして爆睡していた今井絵里子衆議院議員。

三度目の不倫とかで、不倫ばかりしている女優の斉藤由貴……最近話題になったどのケースも、呆れ返るしかないのは同じだ。

しかし、あえて言うが、この「不倫けしからん」の大合唱の中で、「日本人よ、いつからそんなにモラルエリートになったのか」という皮肉な感想を抱くとともに、単にもともと気に食わなかった有名人のアラを見つけて、妬みやっかみも加わって、ここぞとばかりに吊し上げて喜んでいるサディスティックな集団リンチのような不気味さを感じる。

一方、あの暴力事件に対しては…

そして、もう1つその釈然としない気持ちは、日野皓正の「ビンタ事件」に対する人々の反応との明らかな違いを見たときに、沸々と沸き起こってくるのである。実は、本論の主題はこちらのほうにある。

この事件もいっとき週刊誌やワイドショーで大きく報じられたが、山尾議員のニュースに埋もれ、いつの間にか許された感すらある。

事件を振り返ると、世界的ジャズ奏者の日野皓正が、自らが指導する子どもたちのジャズコンサートで、逸脱した演奏をした中学生を聴衆の面前で怒鳴りつけた後、言うことを聞かない相手の髪の毛をつかんで大きく揺さぶり、最後には往復ビンタをしたとされる事件である。

本人は、「軽く触っただけ」「親子のような間柄だ」「アントニオ猪木に殴られたほうがもっと痛い」などと、薄笑いを浮かべながら苦しいとしかいいようのない言い訳に終始していた。

確かにそういう一面はあったかもしれない。しかし、何より驚いたのは、日野に対する擁護論が実に多かったことである。

愛のムチであれば暴力ではない、子どものほうが悪い、中学生本人も悪かったと認めて謝っている、暴走した子どもを止めるためには仕方なかった、昔はあれくらい普通だった……一般の人々のツイートだけでなく、良識派と思われる著名人やコメンテーターまでもが揃いも揃って擁護しているのだ。

このような暴力に対する「寛容さ」は、不気味なほどだ。不倫と暴力をそもそも同列に論じるなという意見があるのは承知の上だが、どちらも逸脱行動としては共通しており、その一方には厳しい「不寛容」で臨み、他方には「寛容」というダブルスタンダードは、理解に苦しむ。

しかも、不倫は許されることではないにしても犯罪とは言えず、暴力はれっきとした犯罪である。

不倫に対して辞めるまで吊し上げて、人生を変えてしまうほど糾弾するモラルの持ち主であれば、暴力を振るった(しかも子どもに対して)人に対しても、同じように糾弾するかと思えば、一転して擁護に回り被害者のほうを責める。

暴力を許してはいけない理由

愛のムチであろうが、何だろうが、理由をつけて限定的に暴力を容認するのは筋違いも甚だしい。体罰に教育効果がないことについては、数多くのエビデンスがある。

たとえば、カナダの心理学者ジョアン・ドゥラントらは、過去20年の体罰に関する研究をまとめ、体罰には教育効果がないばかりか、子どもの攻撃性を高め、抑うつ、不安、アルコール・薬物依存、不適応など数々の害をもたらす恐れがあることを警告している。

アメリカの心理学者ウィリアム・ミラーは、「脅迫、不安、罪悪感、恥、屈辱などの体験は、行動を変える原動力にはならない」とはっきりと述べている。

また、いくら殴られたほうが非を認めて謝ったからといって、殴ったことの正当化はできない。あれだけニュースになって大事になれば、子どもであれば、大の大人、しかも世界的有名人を前に謝らざるを得ないだろう。これだけの明白な力のアンバランスがある相手に、暴力を振るったことがそもそもおかしいのである。

確かに、あの場面でこの中学生は自己中心的な振る舞いであったし、暴走していた。反抗的な態度も見せていた。しかし、長年親子のように指導してきたのが本当ならば、これまでに彼のそのような性格を見抜けなかったのだろうか。

調子に乗るタイプだ、暴走したら止まらないという傾向があるのなら、指導者はそれを指導のなかで把握すべきであるし、場合によっては舞台に上げないという選択もあるだろう。

何より、地道な指導をして、彼の成長を促してから舞台に上げるのが指導者の役目である。それを疎かにしたのは、まぎれもなく指導者の責任である。

にもかかわらず、演奏会が台無しになったことの結果をすべて子どもに負わせて、暴力で屈服させ、謝罪させる。この行為のどこに擁護の余地があるのだろう。

あるいは普段はおとなしい子どもが突然興奮して暴走したのかもしれないが、それでも暴力を振るって止めるというのは、最もやってはいけない稚拙な手段である。

たとえば、ひとまず演奏を止めて、沈静化を促すとか、そのうえで本人を諭すなどの方法は取れなかったのだろうか。そもそもが教育を目的とした演奏会なのであるから、そのほうが、よほど教育的である。

さらに、あえて言えば、たかが演奏である。たくさんの人が長いこと練習をして、支えてきた成果の演奏であることはわかる。しかし、教育を目的とした演奏会で、子どもの人権や尊厳よりも、演奏を続けることが優先さるべきだったのだろうか。

これくらいの荒っぽい指導は、昔は許されたという意見もおかしい。それなら、「英雄色を好む」というように、昔なら不倫などは政治家が辞職する理由にはならなかっただろう。しかし、不倫に関しては、「今」の基準で容赦なく叩かれている。

もっと昔に遡れば、今よりはるかに社会は暴力的で、果し合いや仇討が許された時代もあった。体罰へのノスタルジアを表明する人々は、何もそんな時代に戻りたいわけではあるまい。

人類の歴史は、言うなれば暴力の歴史でもあり、近代以降はその根絶に向けて世界が叡知を絞り、努力を重ねてきた。

暴力との戦いの歴史

アメリカの心理学者スティーブン・ピンカーはその著『暴力の歴史』の中で、有史以来の暴力の変遷を丹念に分析し、現代は「世界人権宣言」(1948年)以降、暴力根絶に向けての「権利革命」の時代であると述べている。

1990年には「子どもの権利条約」が発効し、そこでは、子どもも大人と同様の人権があると謳われている。

こうした革命のなかで積み上げられてきた「暴力は絶対に許さない」という価値観や社会的な規範は、きわめて貴重なものであり、人類が長年の暴力の歴史への反省とともに到達した宝である。

少々の暴力なら許される、愛があれば許されるなどと限定的に許していたのでは、次第にその境目が曖昧になるばかりである。

日本人はとかく大勢を占める意見に流されやすく、誰かが声高に不倫を糾弾すれば、右も左もの大合唱になる。

少しくらいの暴力はいいじゃないかと大勢が言えば、それに追随し容認しているうちに、いつしか指導に名を借りた子どもへの暴力や体罰が許される時代に後戻りし、暴力への不寛容という病が拡大するのを恐れる。

不倫に対してこれだけ不寛容になるモラルとパワーがあれば、それを暴力にこそ向けてほしい。われわれはもっともっと、暴力に対して例外を許さないほどの不寛容になるべきであると思う。