数々の有名店でエグゼクティブ・シェフなどを歴任してきた、米澤文雄氏

ニューヨーク発の高級フレンチレストラン「Jean-Georges」。その東京店を託されたのが、数々の有名店でエグゼクティブ・シェフなどを歴任してきた、米澤文雄氏。21歳で単身渡米し、同N.Y本店で見習いから日本人初のスー・シェフ(副料理長)に抜擢され、その後、料理界から引く手あまたとなった若き一流料理人。そんな彼が修業時代から常に持ち続けた哲学――料理技術よりも大切だと説くのは「すべてを楽しみに変える」超ポジティブ思考でした。エンターテインメントコンテンツのポータルサイト「アルファポリス」とのコラボによりインタビューをお届けします。

ミシュラン星付きシェフの試行と挑戦


アルファポリスビジネス(運営:アルファポリス)の提供記事です

――“日本オリジナル”の新しいフレンチに、世界中が注目しています。

米澤文雄氏(以下、米澤氏):アメリカ・ニューヨークを中心に、世界中で38店舗のレストランを展開するフランス人シェフ、ジャン・ジョルジュ・ヴォンゲリスティン氏。彼の長年の夢であった東京進出を果たしたのが、ここ「Jean-George Tokyo」です。2014年3月に六本木に開店して以来、日本はもとより、世界中から多くのお客さまにお越しいただいています。

100席以上もあるニューヨークの本店に比べ、あえて席数が抑えられた東京店には、日本の料理文化に魅了されたジャン・ジョルジュ氏の特別な想いが込められています。フレンチでは珍しいオープンカウンターを唯一東京店で設けているのも、日本の「割烹料理」のような、料理人がお客さまの目の前で調理し、振る舞う舞台装置を体現したいという彼の願いからでした。

――その舞台の“指揮者”として、シェフ・ド・キュイジーヌ(料理長)を務められています。

米澤氏:ジャン・ジョルジュ氏から受け継いだ独創的な料理を追求する想い、そこに日本人ならではの繊細な味覚や、四季を色濃く反映した、“日本オリジナル”のヌーベル・キュイジーヌ(新しい料理)を、皆さまにお届けしています。さらに「日本ならでは」を楽しんでいただくべく、世界38店舗中東京店だけの、コースの各料理にあった日本酒を提案する“日本酒ペアリング”など、常に新しい取り組みをおこなっています。

「Jean-George」の元に集まった情熱溢れるスタッフたちと触れ合い、料理を通じて「挑戦の喜び」を共感できる今は、とても充実しています。もちろん、楽しいことばかりではありませんが、大変さも含めて「喜び」と感じられるのは、人を笑顔にできる“料理”そのものが大好きだからなんです。そんな料理への想いとともに、私が大切にしてきたのは、常に物事をポジティブに捉えていたいという気持ちです。見習いからこの世界に入り、たくさんの現場で経験を積ませていただきましたが、ただの一度だけ「辞めたい」と思うことがありました。そんな料理人最大のピンチを救ってくれたのも、そうしたポジティブ思考だったんです。

「観察力×ポジティブ思考」で開いた料理人の扉


米澤文雄(よねざわ ふみお)/料理人 1980年、東京浅草生まれ。幼い頃、母の料理とその喜びに触れ、料理の世界へ。高校卒業後、恵比寿のイタリアンレストランで4年間修業したのち、02年に単身で渡米。毎年三ツ星を獲り続ける高級フレンチ「Jean-Georges」本店で日本人初のスー・シェフにまで登りつめる。帰国後、日本国内の名店で総料理長などの経験を経て、JG日本初進出を機に、レストランのシェフ・ド・キュイジーヌに抜擢。現在、国内外の美食家たちに腕を振るいながら、新たな料理の創作と独自の挑戦を続けている。【オフィシャルサイト】。

米澤氏:そうした考え方は母親譲りの部分があるのではと思っています。私が生まれたのは浅草で、いわゆる下町育ちです。父は勤め人ではあったものの、やはり典型的な江戸っ子で頑固タイプ。何かあるとすぐにへそを曲げてしまう父に、献身的に尽くしつつも、どこかさらりと受け流す母。嫌な顔ひとつ見せないその姿が、私の性格にも多分に影響していると思います。

そうした両親の元に育った私ですが、小さい頃から、どこか理屈っぽい子どもだったようです。両親の性格を分析したがるのもそうですが、他者の行動を観察してしまうようなところがあったんです。そこで、ある日、人の気持ちがわかるのならそれに応えていこうと思うようになりました。無理してそうしようと思ったのではなく、応えることで人が喜んでくれるのが嬉しかったんです。そして、それは料理でも同じでした。

私は、家の料理の手伝いをするのも大好きで、納豆をかき混ぜるのと、みそ汁の味噌を溶かすのが自分の担当でした。それも、家族が目の前で喜んでくれるのが嬉しくて、褒めてくれればくれるほど、次から次へと料理を覚えたいと思うようになり、しまいには手伝いの範疇を超えて、料理の品数を増やしていました(笑)。

私は、音楽と体育と家庭科以外、およそ勉強と名の付くものは、からきしダメだったのですが、母は私の性格を見越してか「そんなに料理が好きなら、将来は料理をする人がいいかもね」と、自分がこの道に進むことを後押ししてくれた最初の人でした。私はそれ以降、一度も親から「(学校の)勉強をしなさい」と言われたことはありません(笑)。

――親からの“お墨付き”をもらって。

米澤氏:幸運にもそうして、早いうちに好きなことを見つけることができて、親も認めてくれたので、早く料理の世界に飛び込みたくて仕方がありませんでした。それでも親からは、高校までは出ておきなさいと言われ、それには、しぶしぶ従うような形でした。高校3年間は、とにかく勉強そっちのけで、チェーンの居酒屋やデパートのビアガーデン、屋形船のお仕事など、とにかく飲食に携われるならとアルバイト三昧でした。

すべてにつながる「基礎」を作った修業時代

米澤氏:ようやく高校を卒業して、私は「イル・ボッカローネ」という、今も恵比寿にある、イタリアンの草分け的存在のお店で、修行させてもらうことになりました。実は最初、学校を卒業したての18歳では“子ども”扱いされ、受け付けてもらえませんでした。私は、どうしてもそこで働きたかったので、「はいそうですか」と引き下がるわけにもいかず、直談判した結果「まずは一週間様子を見よう」と言われて。そうして、この世界での最初の一歩をなんとか踏み出せました。

――ようやく踏み入ることのできた料理の世界、いかがでしたか。


どの世界も同じかもしれませんが、ある時期においては、がむしゃらにやっていくことも必要だと思います

米澤氏:それが私は、初っ端から「使えない人間」だったんです。やることなすこと全部ダメ。料理以前の、人としての礼儀、社会人としての言葉遣いから直される始末でした。それでも、なんとか諸先輩方のおかげで、最低限のレベルまで引き上げてもらったのですが、そこから先も、とにかくすべてが勉強の日々でした。オーダーを取るためにイタリア語を覚えないといけませんし、さらに料理の説明もお客さまにちゃんとできるよう、料理の名前はもちろん、どんな素材を使っていて、それがどんな背景を持つ料理なのかを、知っていなければなりませんでした。とにかく覚えることが山ほどあって、毎日必死でしたね。人生の中で一番勉強した時期かもしれません(笑)。

どの世界も同じかもしれませんが、ある時期においては、がむしゃらにやっていくことも必要だと思います。そして、変にお利口に指示をこなすよりも、不器用に実直に、自分の頭で考え理解しながら、基本を身につけていくことが大切なんだと思います。なまじお利口に、言われたことをそつなくこなせても、それは「作業」になってしまい、一歩外に出ればそうした「作業」で得た技術なんて一円の価値も無くなってしまうんです。不器用な方が、学ぶことにおいては有利だと思っています。これは、今お店のスタッフにも言っていて、料理は「つくりたい」と思えば誰でも確実にできるようになる。料理ができるようになるのは料理人として当たり前。そこから先に必要なのは、そうした不器用な行動だと伝えています。

例えば、「カリフラワーを毎回同じ大きさに切れる」といったようなことの方が、よっぽど大事なことだと思うんです。私自身、今でも心のどこかにある、自分の「器用でお調子者」な部分を常に警戒しています。

「憧れ」のようなものを感じて、とにかく追ってみることも必要だと思います。私の場合、それはお店の先輩方が、お客さまとのやり取りの中でイタリア語や英語などを流暢に話す姿でした。ですから、この時期は料理に関する知識のための勉強はもちろん、接客に必要な外国語も勉強していました。それまで自分は勉強が嫌いなんだと思い込んでいましたが、興味さえあれば自らすすんで学べるものだと、この時に実感しましたね。

恵比寿で働いていたこの頃は、右も左も分かっていない自分でしたから、たしかに大変だったと思います。でも、振り返ってみると、こういう時間こそが、今の自分の基礎になっているとわかります。正直「逃げ出したい」と思うことは何度もありましたが(笑)、「辞めたい」と思ったことは一度もありませんでした。それは、料理の現場で学べる喜びの方が圧倒的に多かったからです。「きつい」と感じた時は、常にそう考えていました。

「すべては行動あるのみ」向けられた海外への眼差し

米澤氏:そうして一人前の料理人を目指して少しずつ経験を積んで、ようやく仕事も板についてきた頃、今に繋がる大きな転機が訪れました。すでにホールでの接客を経て、厨房に入っていたのですが、お店が忙しい時は、ホールにかり出されていました。店長は、私が英語も勉強していたことを知っていたので、よく外国人のお客さまの接客担当に指名してくれていたんです。

ある日、アメリカ人の団体のお客さまの接客を担当したのですが、これがきっかけで私の目指す地点がひとつ大きく変化したんです。喜怒哀楽がはっきりとして、リアクションが面白いお客さまに、私も楽しくなって、サービスをさせて頂きましたが、帰り際、私に向かって一斉に拍手してくださったんです。サービスを供する側が逆にサービスを受けてしまったかのような、なんだか不思議な気分になってしまって……。

「なんて素敵な人たちなんだろう。この人たちの住む国アメリカで料理を作ってみたい!」と、この時はじめて、アメリカという国に対して興味が湧いたんです。当時、料理の世界で一流を目指そうと思えば、フランスかイタリアなど、ヨーロッパに留学するのが王道で、「料理でニューヨークへ」というのは一般的ではありませんでした。親を説得し、お店に説明して、とりあえずあるお金でチケットだけは購入して、とにかくできることから動いていました。

――「行動のみが現状を変える」。

米澤氏:実のところ、そこから貯金もはじめてはいたのですが、なかなかお金が溜まらず苦労しました。出発直前、ようやくかき集めても、たったの40万円。結局決めたのは飛行機のフライトだけで、あとはそのまま働く場所も、住む場所も決めずに渡米しました。この先どうなるとか「常識」で考えてたら、とてもじゃないですけど行けなかったと思います。

今、「どうしたら海外に行けますか」とアドバイスを求められることがあります。そんな時は決まって「とにかく“行く”と決めたら、それに必要なことから逆算して動いたほうがいい」と伝えています。今でも、「行動のみが現状を変える」と信じています。そして結果的にはこの選択が、今に繋がる料理人としての私の生き方を形作ることになったんです。21歳の時でした。

「鳥さばき」「アスパラ剥き」で掴んだ“最高峰の現場”

――アテなし、コネなし、お金なしのニューヨーク生活が始まります。

米澤氏:ニューヨークに着いてからの予定を何も決めずにいたので、とりあえず、本格的に英語を学ぼうとまずは語学学校に通ってみました。ところが、わずか2回目の授業で、自分には難しすぎて、学校で学ぶには限界があり、体当たりで覚えていく方が早いことに気づかされました。とはいえ、とりあえず仕事をするにしても、日本で独学した最低限の英語しか話せないし、どうしたものかと困っていましたが、たまたま居候していた先の知り合いが、現地の人気日本料理店に求人があることを教えてくれ、「これはチャンスだ」とすぐ会いに行きました。

今でも覚えていますが、お店に着くなり「これ、さばいてみて」と、鳥を一匹ぽんと目の前に差し出されました。面接から始まるとばかり思っていたので、少々驚きつつも、恵比寿時代に教えられた通りにさばいてみたら、それを見て「よし」とひと言。その日から働かせてもらえるようになりました。

――恵比寿の頃に学んだ「基本」が、身を助けました。

米澤氏:「なんだ40万円もいらなかったな」と、軽口を叩いていましたが、すぐに目が回るほどの忙しい日々が始まりました。ニューヨークタイムスで三ツ星評価を受けたレストランで働いた唯一の日本人が経営する、現地で人気の日本料理店。恵比寿時代は勉強に一所懸命でしたが、圧倒的に働いたと思えるのはこの時期でしたね。週6日働かせてもらって、残り1日の休みの日にも、直接見たり、評判を聞いたりして知ったお店に電話をかけては、「そちらでインターン(研修生)として働かせてください!」と、つたない英語でお願いしていました。

最初は、電話をかけるのにも勇気がいりましたが、だんだんそんなことも慣れてきて。そんなことよりも、現地の高級レストラン・有名レストランでの現場経験が積めることの方が、遥かに刺激的だったんです。お金も無かったですし、体力的にもハードでしたが、一流のシェフの仕事を目の当たりにでき、一日の仕事の終わりには「なにか好きなものを食べろ」と、一流シェフの料理を食べさせてもらえる(厨房に立ちながらですが)……。お金では買えないものをたくさん吸収させてもらいました。

「Jean-Georges」に出会ったのも、この週1の見習い活動がきっかけでした。ニューヨークで三ツ星を獲り続け地元有力紙からも絶賛のコメントが寄せられていた、最高級フレンチレストランは外から眺めてもかっこよく、使われている機材や鍋ひとつとっても格好よかったのを覚えています。私はすぐに電話をかけ、インターンで働かせてもらえるようお願いしたのですが、ここでもまた恵比寿で学んだ基本が活きたんです。

インターンとしてお店に入った初日、アスパラを2ケース、またぽんと目の前に出されて「全部剥いて、切ってくれ」と言われたんです。アスパラを剥くのは、恵比寿の頃からずっとやっていて、誰よりも早く美しく下ごしらえすることには自信がありました。すぐに下ごしらえしたアスパラガスを見てもらうと、周りから「あり得ない」「早いのに綺麗だ」と、皆一様に驚いてくれました。そうやって、成果を見てもらって、また翌週もとお願いしていくうちに、少しずつ次の仕事を掴んでいきました。その後、「Jean-Georges」ブランドであるニューヨークのカジュアルラインのダイニングに雇ってもらえることになったのも、こうした基本があったからだと思います。そうやって、順調に経験を積んでいくかに見えた数年後、私は今まで味わったことの無いピンチに見舞われたのです。

ポジティブ思考で乗り切った最大のピンチ


「日本人でのスーシェフ(副料理長)になった人物はいない」と聞き、全力で頑張りました

米澤氏:Jean-Georgesでの仕事が板につくようになって、私はさらに新しい目標を掲げるようになりました。

それは「日本人でのスーシェフ(副料理長)になった人物はいない」という事実を耳にし、「それならばいっそ、この1年でスー・シェフを目指して全力で頑張ってみよう」と思ったんです。自分にとっては高い目標でしたが、成し遂げるためにはどうすればいいかをひたすらに考えがむしゃらになって仕事をしていました。そうして、「作業」にならないよう、再び自分の中でエンジンをかけて取り組むこと1年後、入店から数えて3年、ようやく納得のいく目標を達成することができました。

――日本人初の、スー・シェフ(副料理長)に。

米澤氏:でも、大変だったのはここからでした。今まで同僚だった人間が、突然指示を出すわけですから、周囲はそう簡単に私の指示を聞いてくれません。周りの料理人たちが戸惑いを覚えるのは当然です。指示を出しても、「言っていることがわからない、理解できない」と、言葉がわからないフリをされていたんですね。何を話しても無視される毎日で、仕事にならない。だんだん、言葉を発することすら怖くなってしまって……。

今まで、どんなに大変な状況でも「辞めたい」と思ったことはありませんでしたが、この時ばかりはさすがに参ってしまいました。仕事に行くのが、はじめて「嫌」になり、日に日にやる気を失っていく……。そういう状況だった私を救ってくれたのは、同店のエグゼクティブ・シェフのひと言でした。

「君が今訴えている状況も含めて、僕は君の話を理解できないと思ったことは一度もない。“英語が話せない”のは、君の言い訳でしかない。理由は別のところにあるのだから、あとは周りを納得させるだけ。そのままの自分に自信を持って貫け!」と言ってくれたんです。

負のスパイラルの中で動けなくなっていた私でしたが、ようやく問題の本質が英語ではなく、自分の姿勢にあったことに気がつきました。そのひと言をきっかけに、自分の考えや行動をブレることなく伝え続けると、周りの状況も面白いほど変わっていきました。相手自身を変えることはできなくても、自分を変えることで、相手の反応も変わってくる。その姿勢こそが、人を動かす。それを示せるかどうかが、大きな差になることにようやく気づくことができました。

――置かれた状況を、“自分ごと”にしていく。

米澤氏:自分ごとにして、とにかく考えて行動する。「無視する奴が悪い」、「言うことをきかないのが悪い」と他人事にしてしまっては、いつまでも知識と経験は財産として残りません。自分ごとにして、はじめて知識と経験は、財産になると思います。そして何かに一生懸命になっていると周りが変わってきます。一生懸命、熱意を持って何かに取り組むというのは、人の心を動かす力を持っているんですよね。その行動が評価されるタイミングは、決まっていません。でも必ずその頑張りは評価され、自分にとって有益なものになると思います。自分ごとにして頑張ることで、絶対的な結果を勝ち取る。この繰り返しだと思います。

「再び日本で挑戦」ジャン・ジョルジュからの白羽の矢

米澤氏:憧れだったレストランでスー・シェフになるという目標も達成し、日本に帰って学んだことを存分に活かそうと考えていた頃、ちょうどニューヨーク・コンセプトのレストラン「57 FIFTY SEVEN」が開店することになり、同店のグランドシェフとして働くことになりました。そうして、お世話になった「Jean-Georges」に別れを告げ、2007年日本に帰国しました。

――いよいよ、日本で腕を振るう時が訪れました。

米澤氏:「57 FIFTY SEVEN」のほかに、古巣でもあった恵比寿の「MLB cafe」でオープニング・シェフとして働き、その後「KENZO ESTATE WINERY」では、エグゼクティブ・シェフとして、ワイナリーのある米国ナパ・バレーと日本を行き来しながら、料理の腕を磨き、自分の店を開くという目標に向かっていました。

ところが、ニューヨークから帰国して6年後、またもや転機が訪れます。自分が修行した「Jean-Georges」が、日本に進出して、東京の六本木に、彼の日本料理への想いを込めた店を開くというのです。そして、さらに思いがけないことに、その「Jean-Georges Tokyo」のシェフ・ド・キュイジーヌを任せられないかと、直接ジャン・ジョルジュ氏から声をかけられたんです。

インターンの頃から夢見ていた「Jean-Georges」が日本にやってくる。しかも、その大きな舞台が今自分の目の前にある。ジャン・ジョルジュ氏は、「今回の東京店のシェフ・ド・キュイジーヌは、君が日本人だからお願いするのではない。君にだったら私の想いを任せられると思ったからだ」。そんな言葉に心動かされ、オファーを受けることを決めました。そうして、2014年、私は再び、「Jean-Georges」の一員として、現場に立つことになったのです。

“美味しいと笑顔が溢れる料理”を届け続ける

――「相手に選ばれる行動」ができれば、自ずと道は拓かれていく。

米澤氏:そして、ポジティブに自分ごとで考えていく。料理長になりたかったら、「この人に任せたい」と思ってもらえるような働き方をすればいい。お給料を多くもらいたいと思ったら、「こいつにだったら、このくらい払ってもいい」と思ってもらう行動をすればいい。相手に選ばれる行動ができれば、自ずと道は拓かれていくと思います。「頑張ってもダメだった」場合、どこかで自分本位になっていないか見直した方がいいと思います。

私がお店でスタッフに言うことは大体いつも同じです。相手にとって嬉しいことかを常に考えて、現場に立ちサービスをするということ。自分がお客さまだったらそれはハッピーか、それを食べたいか、その笑顔で迎えてもらいたいか、その身なりを見て嬉しいか、そのタイミングでドリンクを聞いてもらいたいか」そう自分自身に問うことで、自ずとサービスの姿勢がどこに向かっているかわかるはずです。

本質はすごくシンプルで、単純が故にそれを実行するのは難しい。シンプルなことにどれだけ真剣に取り組めるかが大切です。スキルは、時間をかければ誰しも一定のものは身に付くものです。それは当然のこととして、お客さまが心地よいと思うことを、先回りしてできるかどうかが料理人・サービスマンにとって何よりも大切なことですし、むしろそれ以上に必要なことはないとさえ思っています。

――新しい時代の中で、料理人としての挑戦は続きます。

米澤氏:新しい時代の流れは今、自分のいる飲食業界にも確実に訪れようとしています。数ある職業で、飲食だけ、大昔からビジネスのスタイルが変わっていません。ところが、IoTなど、技術が高度に発達した今、何かの拍子に、大改革が起きるかもしれない、一つの大きな転機にあるんじゃないかと思っています。それが、どんな形になるか、今はわかりません。ただ、考えようによっては、今まで料理人が目指してきた一つのゴール「オーナーシェフ」という以外にも、もっとたくさん可能性を広げるものになるかもしれないと考えています。

飽和状態にある東京のレストラン業界で、料理人という職業になかなか「夢」を感じにくくなってきている今、私は新しい料理人の道というのも、そうした新しい技術の中に見出し、示していきたいと思っています。そうして、自分が誇りに思う「料理人」を目指してくれる人がもっと増えて欲しい。おいしい食事には、誰もが喜んでくれます。それを作り出せる料理人という仕事は、やりがいのあるいい仕事だと私は信じています。そうして、自分の愛する料理の世界で挑戦を続けながら、「食した時に美味しいと笑顔があふれる料理」を、これからも皆さまにお届けしていきたいと思います。

(インタビュー・文/沖中幸太郎)

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