6年前から、「気仙沼」という地名が頭の中に刻まれていた。8月末の週末、ついに気仙沼に旅した。写真は筆者提供。

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6年前から、「気仙沼」という地名が頭の中に刻まれていた。8月末の週末、ついに気仙沼を旅した。

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朝、上野駅で新幹線に乗り、2時間後に一ノ関の駅に到着。ところが、JR大船渡線一ノ関駅に着いた途端、目の前で気仙沼行きの電車のドアが閉まった。次の電車は2時間後…。

30分後に大船渡線の観光車両「POKEMON with YOU トレイン」が来ると知り、駅の窓口に駆けつけたが、残念ながら、駅員さんから「ポケモン電車は全部指定席で、満席です」と告げられた。

それでも、一ノ関駅に滞在していた2時間の中、ポケモン電車に出会えてラッキーだった。車内外にピカチュウがいっぱい描かれている。乗れなかったが、見るだけで気持ちが楽しくなった。

ポケモン電車は、2012年12月、大船渡線の一ノ関〜気仙沼の間を結ぶ臨時快速「ポケモントレイン気仙沼号」として営業運転を開始した。週末や夏休み期間を中心に走っている。親子連れの乗客が多いようだ。気仙沼駅の前にも大きなピカチュウが立っている。気仙沼のバスとタクシーの多くに可愛いアニメキャラクターが描かれており、まるで街の風景を背負って走っているようだ。気仙沼がかわいいピカチュウたちの力を借りて観光客を呼ぼうとしている。

駅前の観光案内センターの方にすすめられ、運賃100円の気仙沼市内巡回観光バスで山の中のリアス・アーク美術館へ行った。ここでは「東日本大震災の記録と津波の災害史」を常設展示している。2011年3月11日から約2年間にわたる美術館独自の調査記録資料として、被災現場写真、被災物など資料総数約500点を展示しているという。美術館のスタッフによると、最近は海外からの団体ツアー客も見学に来ているとのこと。

気仙沼市内も回ってみた。スーパーなど店の多くは、被災現場の写真を貼り付けている。気仙沼港にある魚市場では外壁いっぱいに被災現場写真を掲示し、目測でおよそ3メートルの高さにある入口の看板上部には「東日本大震災津波水深ここまで」と線を引かれて記されている。

「海と生きる」、気仙沼の街および旅行宣伝資料の中に、よく見かける言葉である。何もかも津波に流された。それでも海を恨んではいない。自然に敬意を払い、海と生きているように感じる。

気仙沼の海は静かで平和的な光景であった。白い漁船が港に並び、海辺の広い空き地には数棟の新築マンションが点在しちょっと寂しい空間のように感じた。空き地と家が立ち並ぶ一帯は間にはっきりした境界線が見える。いうまでもなく、6年前、津波が侵入したところである。

その後、気仙沼港でフェリーに乗って大島へ、25分後に到着した。大島は観光の島だと言われているが、正直言って想像したイメージと違い第一印象は観光地の雰囲気が弱かった。

大島港の周辺、トイレ、スーパー、観光案内所などがすべて仮設の建物である。復興までまだまだ遠いと感じた。建物には仮設があるけれども、人生には「仮期間」がない。

緑に囲まれる一軒の喫茶店を訪れた。客は私1人なので、店主のおばあさんは私にいろいろと話してくれた。壁に貼られているボランティアの集合写真が目立つ。「3・11その日、この家は2階の屋根まで浸水。私たちは高台にあるお寺に避難した。周りの家はほとんど流された。この建物は丈夫で、倒れなかった。ボランティアたちが来てくれて、家を修復してくださった。おかげで、震災後にも喫茶店を続けてきた。震災前、この周りに商店街があった。津波で全部変わった。今、島は静かになった」おばあさんが震災前の大島商店街の写真を手に、さまざまな思いを語ってくれた。

気仙沼の旅で、気仙沼の人々が「ご縁」と「ご恩」を大切にし、災害史・災害文化を大事にしていることが分かった。震災地の「復旧」は不可能だ。新しい道を進んで復興するしかない。日本では、「大島」という地名がたくさんある。気仙沼湾に浮かぶ大島は東北最大の有人離島、緑の真珠と謳われる。しかし、あえて言えば、観光の島としては緑だけでは足りない。現在港の周りの荒れ地には雑草が広がっている。それはやや寂しい「緑」である。観光施設をもっと充実にしないと観光客は足を運んでくれない。商店街を優先的に復興させ、レジャー施設を開発させ、そして、孤独な喫茶店が再び賑やかになってほしい。

一ノ関駅で帰りの新幹線を待つ間に台湾の旅行団体に遭遇した。台湾の観光客は「気仙沼の復興を見たいから来ました」と話していた。その一言に、「復興は気仙沼の観光資源」「気仙沼は正々堂々と復興の歩みを世界中に見せればいい」と感じた。「また来年の夏、気仙沼と大島」私は心の中でそうつぶやき新幹線に乗った。

■筆者プロフィール:黄 文葦
在日中国人作家。日中の大学でマスコミを専攻し、両国のマスコミに従事。十数年間マスコミの現場を経験した後、2009年から留学生教育に携わる仕事に従事。2015年日本のある学校法人の理事に就任。現在、教育・社会・文化領域の課題を中心に、関連のコラムを執筆中。2000年の来日以降、中国語と日本語の言語で執筆すること及び両国の「真実」を相手国に伝えることを模索している。