人妻が恋するのは、罪なのか。

裕福で安定した生活を手に入れ、良き夫に恵まれ、幸せな妻であるはずだった菜月。

結婚後に出会った彼は、運命の男か、それとも...?

身も蓋もない、無謀で純粋な恋に堕ちてしまった女は、美しく、ひたむきに、強かに、そして醜く成長していく。

人妻の菜月は、独身のフリをして参加した食事会で、独身の達也と出会い、恋に堕ちてしまう。どんどん深まる二人の関係だが、達也の恋人に目撃されてしまう。




「...たっちゃん?出張じゃなかったの?その人、誰?」

声に怒りが滲まないように、あゆみはなるべく無感情に言った。

自分の恋人が、知らない女の肩を抱き、今まさに彼のマンションに入ろうとしている。

しかし、こういった局面で感情に流され激昂などするような女は、虚しい結末を迎えるのは分かっている。

あゆみは加害者になってはいけない。哀れな被害者であるべきだ。

一瞬、達也が隣の女に何か囁いた。

綺麗な女。

歳はあゆみと同じくらいだろうか。化粧気はなく、白い肌と絹糸のような髪の美しさ、華奢な身体つきが異様に目を引く。服も派手ではないが、質が良さそうなことは一目で分かる。

何よりその女には、同性の自分でもヒヤリとするほど、妙な色気を放っていた。


密会現場を押さえられた二人。修羅場が起こるのか...?


「私、失礼します」

緊張で張りつめた場の空気を最初に破ったのは、その女だった。

女は小さく呟くと、あゆみにも丁寧に会釈をし、そそくさとその場から去って行く。その表情からは、何の感情も読みとれない。

「菜月さん、また」

女の背中に、達也が申し訳程度に声をかけた。彼女とは対照的に、達也の顔はひどく不安気だ。

数分前まで、あゆみのすぐ目の前で、仲睦まじい姿を見せていた二人。急に他人行儀になった彼らの振る舞いは、傍から見れば滑稽極まりない。

それに、菜月という女の引き際が良すぎるのも、どうも違和感を覚える。

そんな二人を傍観しながら、あゆみは嫌味の一つでも投げてしまいそうになるのを、歯を食いしばり必死で堪えた。


都合のいい女を、甘く見過ぎていた


「ごめん」

達也はソファに身体を預け、自分の謝罪がひどく面倒そうに響くのを、ほとんど投げやりな気持ちで聞いていた。

あゆみはソファの傍に立ち尽くしたまま、無言というプレッシャーを発している。

「...あの人、誰なの?」

彼女の細く悲しげな声に、さらに神経を逆撫でされる。

状況説明や言い訳なんかする気は毛頭なかった。むしろ彼女の方から察し、穏便に関係を終わらせてくれればいいと願うのは、男として我儘すぎるだろうか。

自分が蒔いた種ではあるものの、焦りや申し訳なさを通り越し、もはや苛立ちすら感じてしまう。

「たっちゃん、あの人のこと好きなの?」

「......」

あゆみの声が、涙声に変わる。

こういった場面は苦手極まりないが、起きてしまったものは仕方がない。いずれにせよ、中途半端な関係を解消するには、いい機会だろう。

「ごめん、あゆみ。俺たちさ...」

「あの人と、付き合うの?」

達也が言い終える前に、あゆみが畳みかけるように言った。

「私と別れて、あの人と付き合いたいの?」

突然、その声から悲痛の色が消えた。

「あの人、やけにあっさり帰ったよね。何か、事情でもあるんでしょ?」

ワントーン低くなった声に、はっきりとした口調。そして、彼女の開き直ったような鋭い視線に捉えられ、達也は思わず怯んだ。

「私、たっちゃんとは絶対に別れない。あの人のこと教えてくれないなら、自分で調べるわ」

―自分に惚れている、都合のいい女―

彼女を甘く見ていたことを、達也は後に激しく後悔することになる。

このときはまだ、彼女の執念の強さや狡猾さに気づいていなかったのだ。

あゆみは目を逸らさず、じっと達也を見つめたまま、ゆっくりとソファに近づいてきた。


その一方、達也の連絡を待ち続ける菜月は...?


夫でない男に心奪われた、憐れな女


洗濯物を丁寧にたたみながら、菜月はいつものように、ぼんやりと達也のことを考えていた。

しかし、数日前までの色めいた気分とは一転、今は押し潰されてしまいそうな寂しさと不安でいっぱいだ。

―菜月さん、あとで必ず連絡するからー

達也の恋人らしき女の子に遭遇したとき、彼は菜月の耳元でそう囁いた。

タイトなジーンズに包まれた細く長い脚と、長い黒髪が印象に残っている。若々しくて、可愛い子だった。

自分の立場としては、達也を信じて身を引くしか選択肢はなかったが、あれから2日間、彼からの連絡はない。

―私のことなんて、もう忘れちゃったかな。

葉山で過ごした幸せな時間を思い返しながら、菜月は自分の不自由さを呪う。

夫でない男に心を奪われてしまった既婚女ほど、憐れな女はいないのではないだろうか。

これだけ達也のことで頭がいっぱいなのに、嫉妬や対抗心を表に出すこともできず、自分から連絡することもできず、ただ待つことしかできないのだ。

しかし、そんな激しい感情に反し、菜月は旅行の証拠を残さぬよう、家の中の隅々まで気を配り、冷蔵庫の中身から洗濯物の量すら、不自然でないように調整した。




そんなことに気を揉んで家の中をせわしなく動き回るのは、涙が出そうなくらい孤独な作業だ。それでも、なぜだかそうせずにはいられない。

そんなもの、家事をしない夫が気づくはずもないのに。

そして、夫の宗一が出張から帰宅したとき、菜月は自分でも滑稽なほど、いつもと変わらぬ妻の顔を取り戻したのだ。

「はい。これ、おみやげ」

空港で購入したらしいチョコレートや香水を受け取りながら、菜月は夫の帰宅を心から喜ぶ笑顔を浮かべた。

何不自由ない、幸せな夫婦の日常の、ほんの一場面。

それを完璧に演じることが、連絡を寄こさない達也への、ささやかな復讐でもあった。


女の変化は、肌に表れる


「なっちゃん、最近ますます肌が綺麗だよね。化粧品とか変えた?」

友人の美加が、菜月の肌をじっと凝視しながら言った。

その日の夕方、彼女は菜月がインストラクターを務める広尾のヨガ教室に来てくれていた。二人はヨガウェアに着替え、スタジオに向かう。

「ううん、特に何も変えてないけど...」

「うそ!なっちゃんの肌、すごくツヤツヤしてるのに」

菜月は曖昧に誤魔化すが、肌の変化は、誰より自分がよく分かっていた。

もっと若い20代の頃の、張りのある疲れ知らずの肌よりも、菜月は今の肌の方がずっと気に入っている。

30歳を過ぎた今、細胞的にピークを過ぎてしまったからこそ、男に愛され、肌が嬉々として内側から潤うのを実感できるのだ。

―でも、達也くんには、もう会えないかもしれない...。

気持ちが沈みそうになるのを我慢して、菜月はヨガ講師としての自分に切り替え、スタジオに入る。

そして、姿勢を正して生徒たちに向き合った瞬間。ひどい悪寒が、菜月の全身を襲った。

―え、この子...?!

スタジオの最前列、インストラクターから一番近い位置に、見覚えのある女がいた。

それは、達也のマンションで遭遇した、長い黒髪の女だった。

▶NEXT:9月16日 土曜更新予定
菜月の職場に乗り込んできた、達也の恋人。どんな波乱が待ち受ける...?