■「人のためにできることがある」

 《経営者から一転、路上生活に。

 そこでラーメンと出合う》

 車中泊を始めて、1カ月ほどが過ぎたころでしょうか。100メートルほど離れた場所にあった「福ちゃんラーメン」の暖簾(のれん)をくぐりました。活字が恋しく、新聞が読みたくなったのです。嫌な顔をされると思いましたが、「どうぞ」というありがたい返事。休憩時間に、ただで新聞を読ませてもらうのが日課となり、そのうちお茶が出るようになり、お礼に私は皿洗いを手伝うことにしました。

 いつしか若い店主夫婦と仲良くなり、互いに身の上話をするようになりました。店主は焼き肉店を経営するのが夢で、ラーメン店で資金をためていました。私は経営に関するノウハウがあったので、事業計画書や書類づくりを手伝いました。夢が実現に向かって動き始めると、店主は「焼き肉店をやるので、ラーメン屋を手放したい。やってみませんか」と持ちかけてきました。

 私自身も、借金を返さなくてはなりません。いつまでも無職ではダメだと思い、店を買うことにしました。

 スープの秘伝も伝授してもらい、「福ちゃんラーメン」の主人になりました。昭和60年、41歳でした。

 会社整理からわずか4カ月目のことでした。ついているとしか思えませんでした。しかし、前の会社の数千万円の借金に加え、ラーメン店のために新たに借金を抱えた。その後3年ほどは、夫婦で休みなく働きました。

 返済のめどが立った段階で、妻には“2度目”のプロポーズをし、再婚しました。

 《平成元年春、知的障害者施設から出前の注文を受けた》

 岡(おか)持ちを手に玄関に入ると、中にいた少年が何か叫びながら突進してきました。とっさに「危害を加えられる」と思って後ずさりしました。

 少年は静かに手を差し出し、岡持ちを持ってくれました。「手伝いたい」というアピールだったのです。岡持ちをうれしそうに運ぶ少年の後ろ姿を見て、「人は誰でも、人のためにできることがある」と教えられた気がしました。

 職員の方と話すと、知的障害者と言うだけで入店を断られるケースもあるそうです。夏の初め、店に障害児と職員を招待しました。20席の店に50人が詰めかけ、立ち食いする職員もいました。

 これをきっかけに障害者や高齢者に、無償でラーメンを提供する活動を始めました。次から次へとほかの施設からもリクエストがあり、遠方には、こちらから出向きました。ワンボックスカーに食材や鍋、ドラム缶でつくった釜を積み込んだのです。

 《平成3年、長崎県の雲仙・普賢岳噴火で大きな被害が出る。被災地の福祉施設が気になった》

 施設に連絡を取り、ラーメンの炊き出しに出向きました。みんな喜んでくれた。「行ってよかった」と思いました。

 翌4年、九州ラーメン党を結成しました。仲間のラーメン屋4軒と農家、近所の主婦ら総勢20人で、任意団体としてです。主に障害者や高齢者施設を訪れ、ラーメンを振る舞いました。

 《7年1月、阪神大震災が発生した》

 雲仙以来、被災地支援も活動の柱と認識していました。活動資金をカンパで集め、3月に神戸へ行き、老人ホームでラーメン1万杯の炊き出しをしました。

 実は震災前の6年秋、急性膵臓(すいぞう)炎を患って、入院したのです。震災発生時は、小康状態で一時退院していました。再入院が必要といわれていましたが、不思議なことに完治していた。「使命があり、神に生かされたのです」。敬愛する牧師は、こう言いました。

 今年7月29日には、豪雨に見舞われた福岡県朝倉市の避難所を訪れました。押しかけにならないように、受け入れ先としっかり話し合い、要請を待って動く。朝倉市には豪雨被害発生の直後に、「同じ被災者として助け合いたい」と申し出ました。熊本地震支援のお礼も兼ねて、心を込めて活動しました。