HR Tech World会場

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●人事(HR:Human Resources)の透明化

 人材の採用や育成、配置、モチベーションの向上など、人材に関する領域は「数字」のみで客観的に判断されることを嫌い、担当者間での議論で調整され、ブラックボックス化されてきた。平たくいえば、政治の世界で行われている「忖度(そんたく)」のようなものが企業の人事でも行われてきた。

 数年前からビジネスのあらゆる領域が「ビッグデータ」により赤裸々に数値化・透明化されているなかでも、人に直接関係してくるナイーブな人事領域だけでは、何事もないかのように従来どおりの不透明な意思決定が行われてきた。

 ところが、いつまでもこの人事領域が「聖域化」されているかというと、そうではない。現時点では、まだAdtech(広告領域のデジタル化)やFintech(金融領域でのデジタル化)ほどの広がりは見せていないものの、米国市場を中心にHR tech(人事領域のデジタル化)は着実に広がりつつある。雇用の流動性が高く、会社に対するロイヤリティが日本のように高くない米国企業にとって、自社に合った優秀な人材を発掘し、適切な業務や教育トレーニングを提供し、スキルやモチベーション、エンゲージメント(やりがいをもって主体的に働く状態)を向上させることが、何よりも自社の競争力を左右する要素だと考えられている。

 一方、日本企業においてHR techは一部の先進的な企業が部分的に取り組んでいるような状態ではあるが、いわずもがな短期的にも長期的にも国内の労働人口が不足することは明らかであり、HR techに取り組む意義は非常に大きくなるだろう。そこで筆者が今年6月にサンフランシスコで参加した、HR techの関係者が集まる世界最大規模のカンファレンス「HR Tech World」を元に、最新のHR techがどのような方向に向かいつつあるかを紹介する。

●データ活用による「エンゲージメント向上」

 HR tech領域は、人材の採用・育成・配置・評価など裾野が広がっているが、もっとも熱いトピックはデータを基にした従業員のエンゲージメント向上だ。ちなみに、カンファレンスでは、米ギャラップが世界各国の企業を対象に実施した従業員エンゲージメント(仕事への熱意度)調査が紹介されていたが、日本における「熱意あふれる社員」の割合はわずか6%しかないことがわかった。

 これは米国の32%と比べて大幅に低く、調査した139カ国中132位と最下位クラスだった。昨今の日本では、長時間労働の見直しやテレワークなど「働き方の改善」が最重要テーマになっているが、近い将来エンゲージメントの向上、つまりは「働きがいの改善」も見過ごせない重要テーマになってくるだろう。では、このエンゲージメントを高めるために、HR techの領域でどのような取り組みが実践されているかを見ていこう。

 従業員数が約3,000名のITサービスのA社では、ライバル企業と比較して従業員のエンゲージメントが低いことに頭を悩ませていた。そこで、同社は他社をベンチマークした上で成果報酬のインセンティブを増やす、研修トレーニングを充実させる、社食を無料にする、オフィスのインテリアを変えてカジュアルにするなど、有効と思しき試みを全社に展開したが目に見えた効果はなかった。それどころか、これらの施策によるコスト増加が収益を圧迫し、業績は下降線をたどるようになった。

 しかし、これらの全社一律の施策をやめ、データに基づいたHR techのアプローチへと変更してから潮目が一気に変わった。もともとマーケティング領域において、ユーザーを利用金額やニーズに基づいてタイプ分けし、タイプに応じた販促施策やサービスを提供することを得意としていたA社は、そのアプローチを従業員のエンゲージメント向上に対しても応用できることに気がついた。

 まずは、従業員に対して社内アンケートや面談を実施し、「何が働きがいの向上につながるか」といった観点から従業員を5つのタイプに分けた。そして、全社向けに行っていた施策のなかから、タイプ別にやる施策/やらない施策を選択し、もっとも効果の高そうな施策を提供するようにした。その結果、全社一律に施策を展開した場合と比べて、トータルの費用を抑えながらも従業員のエンゲージメントを向上させることに成功した。

 これは、マーケティングのコミュニケーション戦略における、セグメント別の施策と同じことがいえる。生活者全体に同じメッセージ・同じメディアといった「一辺倒」の接触を図っていたところを、生活者の性・年代や購買スタイル、関心度合い等の違いによって雑誌・DM・ウェブなど施策を出し分けてアプローチすることで、セグメント別の施策の費用対効果を高め、全体として広告費の無駄が抑えられるというものだ。

 HR techの取り組みに話を戻すと、別の企業B社では、従業員のエンゲージメントを向上させるために、ひとひねり手の込んだことをしている。エンゲージメントの高い従業員と、そうでない従業員を分け、両者のメールで使用される単語の違いや、出社時間・退社時間の違い、有給休暇の取得率・タイミングの違い、オフィス内での動きの違い(※あらかじめ従業員の移動を記録できるリストバンドを渡して装着してもらう)などから、どこに違いがあり、そのギャップをどのように解消するかに取り組んでいるのだ。ここまでやられると、従業員のほうもいくら仕事とはいえ、すべて監視されているようでやりづらいといった声も上がってはいた。

 いずれにせよ、従業員のエンゲージメントをKPIとし、データとテクノロジーに基づいていかに効率的に向上させていくかといった取り組みが日進月歩で行われており、企業の競争力を大きく左右する時代になりつつある。

●人事領域(HR)とマーケティング領域の融合
 
 上記以外にもデータを活用したエンゲージメント向上のアプローチが紹介されていたが、共通して浮かび上がってきたのは、人事領域とマーケティング領域の融合だ。これまで、社内の関係者に働きかけをする人事領域と、社外のユーザーにアプローチするマーケティングはまったく別々の道を歩んできたが、ここにきて「データ」×「人を動かす」という共通のキーの下、人事領域でもマーケティングのセグメント別(もしくは、One to One)の考えを積極的に取り入れるようになってきている。

 人事領域の場合、分析し、働きかける対象となる従業員のデータは、オンライン・オフラインを問わず、リアルタイムで手軽に入手しやすい。今後、この領域はデータの蓄積とともに関連する分析ツールも増えることで、急速に市場が拡大する可能性がある。現状では人事担当者とマーケターは、日常業務での接点が少ないのが大半だろうが、お互いのアイデアや知見を共有することで人事領域に新しいイノベーションが生まれ、ひいてはその企業の飛躍的な競争力の向上にもつながっていくことだろう。
(文=村澤典知/インテグレート執行役員、itgコンサルティング 執行役員)