結婚したら、寿退社♡

一昔前まで、それは女性の人生における最初の小さなゴールだった。

家庭に入り、料理の腕を磨き、夫の帰りを待つ。

だが、2017年の東京で「専業主婦」は、本当に憧れるべき存在だろうか?

結婚したら、母親と同じように専業主婦になることに疑いを持っていなかった志穂。だが、家事・育児をまったく手伝わない夫・康介に不満を募らせていた。

自立しようと仕事復帰を試みるも、思うようにいかない日々が続いたが、思わぬチャンスが訪れる。




華やかなベンチャー企業のオフィス


「今日からよろしくお願いします!」

聖羅が紹介してくれたのは、渋谷にオフィスを構えるベンチャー企業の事務職だ。志穂はここで、細々とした雑用や、電話番などを行う。

自分と年はそう変わらない社長に、勢いのある社員たち。華やかな雰囲気とスピード感のある職場に、丸2年間専業主婦だった志穂は興奮を隠せない。

聖羅から連絡を貰った後、志穂はすぐに子連れで面接に行った。

大手での就業経験と、聖羅の紹介だという点が決め手となりその場で採用された。

オフィスからすぐ近くの幼児教室にも奇跡的に空きがあり、そこに預けながら週3日、働く。10時〜16時と、時間も完璧だ。

自分は、なんて幸運なのだろう。

騙されそうになったこともあったが、「働きたい、少しでも自立したい」と願えばすぐにこうしてトントン拍子にことが進む。

仕事を探し、希望に燃える志穂には心の余裕も生まれ、ギクシャクしていた康介とも以前のような会話が出来るようになっていた。

保育園ではなく、「幼児教室」に預けるというのも、康介の心証を良くしたらしい。仕事をすることにも、賛成してくれている。

もちろん収入はほとんど幼児教室代に消えてしまうようなものだが、それでも志穂は希望に燃えていたのだった。


専業主婦仲間だった友人の反応は…?


「自分たちとは違う人」になった友人への、批判的な目線


「久しぶり〜!みんな、すごく大きくなってる〜!」

今日は、ウェスティンホテル東京『ザ・テラス』でランチ会だ。




ランチ会のメンバーは、いわゆる志穂の「ママ友」達である。

子供がそれぞれ3ヶ月ほどの時に、ベビーマッサージの教室で知り合ったメンバーだ。志穂以外の3人はみな専業主婦で、駒沢大学駅周辺に住んでいる。

志穂は、早く自分が仕事を得たことを話したくて仕方がない。だが、みなは美香の話に興味津々である。

曰く、希望の幼稚園に入るための幼児教室で、ボスママから目をつけられているという。

「ねぇ、志穂ちゃんもひなちゃんを幼児教室に通わせてるのよね、渋谷の。そういうのは全くないの?」

美香が志穂に話を振ると、みな一斉に志穂の方を向いた。

「うん、そういうのは全然なくて。というかね、基本的に保護者はお教室に付き添わないのよ。その間私も、仕事しているの。」

志穂は得意げに言ったつもりなのだが、美香があからさまに眉をひそめた。

「え…。志穂ちゃん、ひなちゃんを預けてお仕事してるってこと?」

変わってしまった空気に気がつかなったわけではないが、今更話題を引っ込めるわけにはいかない。

「そう。でも、週3だけだけどね。そこの幼児教室からすぐ近くの会社で、独身時代のお友達が紹介してくれたの。」

「へぇ〜…。」

美香は、分かりやす過ぎる侮蔑の表情を浮かべた。心の中では「何がいけないの」と反発しているのに、なぜだか堂々と反論できない。

「でも、渋谷なら駒沢大学駅からも近くて、幼児教室の間に少しお仕事できるのならいいわよね。」

ママ雑誌の読者モデルもしている、華やかで社交的なママ友のユカリが助け舟を出してくれた。凍った空気は溶け出したかに見えたが、美香はまだ言い足りないようだ。

「私のお家では、難しいわ。主人も義母も、絶対いい顔してくれないもの。何より子供がかわいそうで私なら絶対にムリ。」

そんな風に、周囲が同意するまで畳み掛ける。

その姿は、執拗と言っても良いほどであった。

結局そのせいでランチ会はあまり盛り上がらず、志穂はモヤっとした気分を抱えたまま家路についた。


排他的なママ友の言葉に傷つく志穂


ママ友だけじゃない、働くことへの障害


自宅に帰ってからも、美香の言葉が頭から離れない。

美香は、志穂と同じ時代に生きてきたはずなのに、言ってることは昭和の時代を生きた志穂の母とそう変わらない。いや、むしろ志穂の母よりも排他的だ。

美香が語っていたのは、”専業主婦か働く母のどちらが良いか”などという、語り尽くされた問題ではない。

彼女は、自分の生き方を肯定したいだけだ。

自分の選択を「正しかった」と思いたいあまり、自分とは立場の違う人間を批判している。




もっとも恐ろしいのは、美香自身がその構造に全く気がついていないことだろう。

その構造に気がついていなければ、目の前で志穂が気分を害していることにも気がつけない。

だが、美香の言葉がこれほどまでに志穂に重く残っているのには、非難めいた口調以外にも理由があった。

あれは、初めての出勤日。全てを終えて帰宅した志穂は、心底くたびれていた。

まさか、子供を預けて働くことがこんなにも気力と体力を消耗するものだとは想像もしていなかったのである。

幼児教室にひなを預ける際に、ひなが大泣きするのはまだ予想できた。

しかし、ベビーカーでの物理的な移動の疲れを引きづりながら、就業中はミスをしないかとずっと神経を尖らせ続け、その後また泣きじゃくるひなを連れて帰るのは、想像よりもずっとずっとキツい。

無事に家にたどり着いても、もちろんご飯の支度をするほどの気力は残っていない。1日離れていたからか、ひなは泣き止んだ後もママ、ママ、と言って自分から全く離れようとしなかった。

こんな小さい子に我慢をさせてまで、私が働く意味なんてあるのかな…と弱気になってしまう。

最後の力を振り絞りスーパーでお惣菜を買って並べておいたところ、たまたま早く帰ってきた康介が遠慮がちに言った一言もキツかった。

「働くのはいいと思うけど、せめてひなのご飯とかは、ちゃんとしてあげてよ。」

非難めいた調子で言われたのではない分、その言葉は疲労で疲れていた志穂の肩に重くのしかかる。

出勤1日目にして、早くも働いたことを後悔しそうになった。

家の中にこもれば行き詰まり、外へ出ようとすれば外野が騒ぐ。

仕事を見つけたかと思えば子供にはストレスがかかり、慣れない家事と育児の両立で八方塞がりだ。

自分は働かない方が良いのではないか、と不安になっていたところに美香からあんなことを言われ、志穂は自信を失くしかけてしまったのだ。

だが、ここで立ち止まるわけにはいかない。

またあの時のような無力感を感じるのは、絶対にお断りだ。

自分は、少しずつでも自分の足で立つと決めた。失敗したら、改善すればいい。

志穂は、ぐっすりと眠るひなの髪の毛を撫でながら、いつの間にか自分も寝てしまっていた。

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少しずつ仕事に慣れるが、夫婦間での衝突再び?