マジョリティが寄ってたかって線を引いて、「納得できるマイノリティ像」をつくろうとしているような…(撮影:尾形文繁、今井康一)

第一線の新聞記者であり、ノンフィクション作家としても活躍する田原牧さんは、トランスジェンダーであることをカミングアウトする希有な存在として、LGBTの問題とも向き合ってきた。昨今のダイバーシティ推進の風潮について、その本質と問題点を指摘してもらった。

「多様性」という言葉はどういう文脈で使われているか


『GALAC10月号』(9月6日発売)(上の雑誌表紙画像をクリックするとブックウォーカーのページにジャンプします)

ダイバーシティ、多様性ということの理念そのものは肯定的にとらえています。ただし、言葉というのは文脈のなかでしか意味を成さないところがあるので、多様性という言葉がどういう形で使われるのかということはまた別の問題としてあると思います。つまり、使われ方次第でたくさん地雷が埋まっているというイメージも持っています。

多様性という言葉はその語感からしても、誰もが納得できるものだと思うんですが、逆に「反差別」といった言葉を覆い隠すために使われているという疑念もあります。普通に考えれば、多様性を強調することは、同時に「差別を、偏見をなくしましょう」ということなんだと思うんです。ただ、差別という言葉を使うと事が荒立つというか、トゲトゲしくなるので、多様性という言葉が使われてきているという面もあると思うんですね。

確かに、多様性を「反差別」という言葉に置き換えると、これまで行われてきた偏見や中傷について、多数派側が反省するという構図になるわけです。それだと事が荒立つから、多様性という言葉で丸く収めましょうと。ある意味でハレーションを回避するニュアンスが拭えないんじゃないでしょうか。

多様性の問題は、マイノリティの人にとってはありがたいことではあるけれど、実は自分たちの問題ではないんです。つまり多様性というのは、マジョリティ側の問題なんです。差別される側ではなく、差別する側の問題なんですね。

卑近な例で言うと、マツコ・デラックスさんがたくさんテレビに出ることによって、言い換えればLGBTの人たちがメディアを通じて可視化されることで、多様性が促進される面はあると思います。それは基本的にいいことだと思うんです。ただ、マツコさんがテレビで活躍しているのを見て「多様性っていいよね」と思っている人が、はたして自分の身内にああいう人がいるとなったときに同じ反応をするのかというと、やはり懐疑的になってしまいます。

ひとごとだからこそ、「マツコはいいよね」という評価ができるし、多様な社会になってほしいという話ができるんでしょうけれど、実際に自分の子どもがそうだとなったときに、泰然と構えられるかというと、そういう人はまだ少ないでしょう。

マツコさんのような人たちがテレビに出て、一般の人が「オネエだ、オネエだ」と笑いものにすることを怒る人もいます。ゲイのなかでも生真面目な方は「私たちは嘲笑の対象でいいのか」と思うわけです。でも、私は「とりあえず見慣れてもらう」ということは大切だと思っています。一昔前は出ることすら難しかったわけですから。ただ、そこで止まってもらうと困るんだよなぁと。自分の子どもがそうであっても泰然と受け入れる自覚を持ってもらえるところまで行ってほしいと思います。

つまり、差別の問題を自分の問題として考えられるかどうかというところだと思うんです。差別というのはその当人を突き刺す言葉で、だからこそトゲトゲしてしまうんですが、多様性という言葉に置き換えると、どこかひとごとで済んでしまうという面は、あるんじゃないかと思います。

反差別の問題を超越しない多様性って何?

昨今、ダイバーシティという言葉がもてはやされている背景には、マイノリティのなかにある才能の活用とか、あるいはマイノリティの市場といった文脈で使われることが多いんです。特にアメリカではLGBTマーケットという言葉が普通に使われますが、市場や人材活用といった面を強調すればするほど、差別という側面や概念は薄まってきます。

『人間の居場所』という本にも書いたんですが、稲田(朋美・元防衛大臣)さんがLGBT問題の特命委員会を作った。そこで掲げられたのは、「カムアウトする必要のない社会」を実現すると。ものは言いようだなと思ったんですが、差別禁止事項みたいなものを持ち込むと、かえってマイノリティの人たちは孤立しかねないからということで、これはまさに怪しい意味での多様性の論理なんです。

つまり、よくよく考えるとやはりこれはマジョリティ側の論理そのものなんですね。孤立するかしないかは、当人(被差別側)の意思ではなくて、問題は孤立させるかさせないかなんですが、多数派に今までの偏見に対する反省を促す方向に持って行くとハレーションが起こるから、こういう物言いになるんです。でも、それを超えない多様性って何なの?という疑問は、根本的に残るわけです。

もう一つ、多様性の文脈で「理解」という言葉が出てきます。私は「理解」と「共生」というのは、全然別の次元の話だと思っています。なぜなら、理解しないと共生できないわけではないからです。ともすると危ないのは、理解するのはいったい誰かと。これもまた同じように、マイノリティ側ではなくマジョリティ側なんです。そうなると、マジョリティの感覚でマイノリティを解釈する、言い換えれば少数派を多数派の言語に置き換えるということが、理解なんです。

それはつまり、マジョリティが納得できるマイノリティ像を作るということであって、納得できないマイノリティはダメだということを、暗に意味しているのではないか。結局それは、同化の方向に誘導するだけの話ではないのかと。こういう話は、差別問題には付きものともいえるもので、沖縄や在日の問題でも同じです。たとえば大阪にいる沖縄人が差別を受けてきたと。そうしたときに沖縄人はどういう行動を取ったかといえば、一昔前は革新政党の側に付くというのがありました。差別問題を固有の問題としてではなく政治問題、階級闘争に置き換えるというスタンスです。まぁ、階級闘争に勝利すれば差別はなくなるというのは幻想にすぎないんですが、そういう方向に行く人は一定程度いたわけです。

それから、著しく自分の出自を隠す人もいて、また自分たちのコミュニティに引きこもるという人もいました。それはなぜかというと、自分たちのコミュニティのほうが楽に生きられるからなんです。人に理解してもらおうとすると、どうしても「納得してもらえるような自分像」を作らざるを得なくなるので、それが面倒だと。在日の一部の人たちなどは特にそうですね。

そうしてみると、理解ということの危うさが浮かび上がってきます。理解してもらうに越したことはないけれども、マジョリティ側が「理解できる」と断言することは、やはり問題をはらむことになります。

理解できなくても共生することはできる

たとえば日本人が朝鮮の文化を完全に理解することは、たぶん無理な話です。沖縄でもそうでしょう。LGBTともなればかなり難しいと思います。だから、別に理解しなくてもいいんだと思うんです。問われているのは理解するかしないかではなくて、一つのシステムのなかで同じ権利を有するかとか、あるいは共存、共生できるかでしょう。私は理解しなくても共生はできると思います。「よくわかんない人たちだけど、まぁいいか」みたいに。お互いに攻撃を仕掛けないかぎりにおいては、それでいいわけですよ。無理に理解という言葉に置き換えて強調すればするほど、「善意の暴力」になりかねないと思います。

マイノリティの人たちは、理解よりむしろ共生を求めているんだと思います。ですから、共生のための工夫がもっと必要なんです。

ただ一方で、マイノリティのなかにも、マジョリティに理解されようとする人はいて、ある種の分断が起こるわけです。自分たちのアイデンティティを守ろうとすると、ある程度引きこもらざるをえないが、引きこもりっぱなしというのはよくないから、表向きは共生という方向によって理解を求めていくことになるんですが、実際はなかなか大変なことです。

今後、多様性ということがさらに強調されるようになってくると、マイノリティは自らを防衛するためにとりあえず引きこもっておくという傾向が強まってくる気もします。正確に言えば、マイノリティのなかの一部にそういう傾向がより強まってくるということです。「マジョリティの言語で解釈される自分たちは、自分たちではない」と。

改めて言うと、多様性の問題はマジョリティ側の問題なのです。マジョリティ側が熱心に多様性の問題を強調すればするほど、日本の社会にある同調圧力も高まるわけです。同調圧力のなかで多様性を語るというのは、喜劇でしかないです。まず自分の頭で考えるという所作がない社会で、どれだけ多様性を言ってみても、根本的に馬鹿げた話になってしまいます。まずするべきことは、同調圧力の数値を下げることではないかと思ったりもします。

長いものに巻かれろという諺がありますが、長いものが今、多様性ということなら、ただそれだけのことなんですね。今のダイバーシティ、多様性を語る文脈というのは、上品に言えば「不十分」、下品に言えば「インチキ」です。

パターナリズムに陥るよりわからないままのほうがいい

LGBTのことを説明するときに、よく「こころの性」と「からだの性」という概念が持ち出されます。「からだの性」はまぁわかりますが、「こころの性」って何だと。私からすると「こころの性」なんてないんですよ。たとえばピンク色が好きなのが女の子で、青色が好きなのが男の子。それかよと。じゃあ、男の画家がピンクや赤を使って絵を描いたらおかしいのかという話になりかねませんからね。

マジョリティの側にもそういう話はあって、「オレは女の気持ちがよくわかる」と豪語している男を見たとき、そのとおりだと思う女はいないと思います。「こいつ馬鹿じゃねぇの」ってなりますよね。男と女の話に置き換えればよくわかる話が、ことマイノリティの話になると、「こころの性」の問題に置き換わってしまう。

いわゆるパターナリズムです。パターナリズムに陥ると、紋切り型の表現が横行するわけです。その段階ですべてひとごとになってしまう。「こころの性」「からだの性」はその典型で、それじゃあ「こころの性って何だ?」と突っ込まれたときに、何も言えなくなってしまう。

性的マイノリティの人たちがいろいろなことで困っていることが多いのは確かですし、メディアはそのことを浮き彫りにしていく必要はあるんですが、自戒も込めて、メディアというのはパターナリズムに陥りがちなのです。特にオピニオンリーダーというのはともするとパターナリズムに陥りがちな人が多いわけです。私はもっと謙虚になるべきだと思いますね。

性というものはそもそも二元化できるのかという議論も、一方であるんです。男の人に「どういう女の人が好きですか」と聞いてもみんなそれぞれ違うように、たとえばゲイの人にしても多様なんです。だけれども、おそらくLGBTのことがわからないから、わかりやすくしたいんだと思いますね。でも、わからないならわからなくていいんですよ。わからなくとも同等の人権があればいいという風にまとめたほうが、よっぽとスッキリすると思います。あるいはそのほうが助かるといいますか。変に「マイノリティの人たちにはこうしてあげましょう」とか言われると、困っちゃう当事者の方が多いんじゃないですか。

理解できないことなんて、世の中にいくらでもあるんだということは、むしろ一昔前の人たちのほうがわかっていたと思います。今は妙に、きっちりと二元化しないと気が済まない人が増えていて、それはけっして賢い態度ではない気がします。

(構成:鈴木健司)