営業や会社経営のノウハウを生かし、障害者が働く場をつくった

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 《鹿児島・種子島の出身。

 成績優秀な“神童”だった》

 小6の時、鹿児島市内のラ・サール中学を受験し、合格しました。はなから力試しのつもりだったので、行かなかったのですが、天才少年と珍重され、中学入学と同時に「家庭教師をしてほしい」という話が舞い込みました。中学時代は楽勝で、県立種子島高校にトップ入学。しかし、中高を通じて教科書をまともに開くこともなく、高校3年のころは、ビリから3番目。それでも早稲田大第二文学部へ推薦入学が決まりました。

 《高校卒業前の10月、父が急死する》

 家族5人を養うため、就職することにしました。学校の推薦で森永乳業の種子島工場に就職し、工員として働きました。

 しばらくして工場が閉鎖されることになり、長崎営業所への転勤が決まりました。家族が私の給料を待っており、やむを得ません。

 そのころ、工場に隣接する酪農組合事務員の若い女性に、心ひかれていました。転勤先では妻帯者であれば、社宅など条件が良かったこともあり、「一緒に行く?」とプロポーズし、結婚しました。

 島を離れ、初めてネクタイを締めての会社員生活です。当初は営業の仕事のストレスで、胃潰瘍にもなりました。

 何とかしようと研修にも参加し、「セールスとは自分を売ること」と、自分流の営業を確立しました。「モーレツ社員」として成績も上げました。

 《7年半の長崎勤務を経て熊本営業所へ。この地で転機が訪れる》

 培ったノウハウもあり、熊本時代の営業は、比較的楽に感じました。与えられたノルマは月半ばでクリアしました。

 一応、出世コースを走っていましたが、あるとき、17年間勤めた会社を辞める決意をしたのです。

 父が亡くなる直前、私は約束をしました。それは、12歳年下の妹が一人前になるまで、面倒を見ることでした。その妹の結婚話が順調に進んでいたのです。「約束は果たした」と考えると、何か新しいことをしたいと思ったのです。

 昭和54年、35歳での脱サラでした。退職金や持ち株を処分し、まとまったお金が入りました。プレハブ小屋を建て、茶を中心とする食品問屋を興しました。森永時代から付き合いのあったスーパーの社長の協力もあり、経営は順調でした。

 その後、地場のスーパーチェーンの仕事を手伝ったのを機に、店舗1軒の経営を任されました。食品問屋は種子島の親族に譲り、スーパーに専念しました。2年間で3店舗にまで成長させました。

 《ところが、親族に譲った会社が倒産してしまう》

 スーパーチェーンを運営する組合の理事長からは「君の会社じゃない。責任はない」と言われましたが、負債をかぶることにしました。

 私が事業家になり、スーパーの経営に手を出さなければ、親族を巻き込むこともなかったわけです。私なりの「けじめ」です。

 自宅やスーパーを手放しても、数千万円の借金が残りました。それでも、債権放棄を申し出てくれた取引先がたくさんいた。感極まって、床に頭を擦りつけたのを覚えています。

 ある大口債権者からは「浜田さん、もう何も残ってないだろう。道は2つ。さっさと逃げなさい。それができなかったら、死ぬしかない」と言われました。私は「もう1つ道があります。逃げも、死にもせん。生きて借金を返す」と応えました。

 《路上生活を送る》

 昭和60年です。40歳にしてスッカラカン。家族に迷惑をかけまいと、離婚届も提出しました。妻と3人の子供は種子島へ帰すつもりでした。ところが、「おもしろそう」と付いてきた。

 古いワゴン車で阿蘇から大分を南下、鹿児島を経たところで、帰巣本能からか熊本へ舞い戻り、益城町へ流れ着きました。

 高速道路の高架下です。娘たちはそこから学校へ通った。熊本地震より前に、私は家族で3カ月間、車中泊をしたんですよ。