プロとしての責任感と意欲を持たせるには、まず自分の名前を出して仕事をさせることから始めるべきである(画像はイメージ)


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「顔のない組織人」による不祥事が続発

 大企業で次々と発覚したデータの改ざんや事実の隠蔽。政治問題にまで発展した政治家の口利きと官僚の忖度。決定のプロセスが不透明なままで推移した東京都の卸売市場移転──。

 世間をにぎわした組織不祥事には共通する特徴がある。それは「顔のない組織人」によって引き起こされていることである。

 彼らはけっして問題人物だったわけではない。それどころか、大抵がとても勤勉で組織に忠実な、ある意味では模範的な組織人である。それだけにいっそう始末が悪い。

 わが国では自己アピールしたり、自分の名前を前面に出したりすることは「はしたない」とされ、陰徳を積み、縁の下の力持ちとして働くことがよしとされてきた。たしかに、そのような人物が必要とされたことは事実である。

 しかし、「組織のため、上司のため」に尽くすことが「世のため、消費者や国民のため」になるとはかぎらない。そして匿名文化のもとでは責任の所在があいまいになり、組織エゴがはびこりやすいという欠点がある。

 また組織人といえどもよい人ばかりとは限らない。ところが匿名主義は一種の性善説に立っているため、「性悪」な人間が匿名性を逆手に取り、陰で私的利益を追求するようになるとお手上げだ。実際に匿名主義のもとでは公私混同や責任転嫁といったモラルハザードが起きやすいし、巨額の資金流用や悪徳商法、贈収賄のような事件の温床になる場合もある。

自分の名前が出ればモチベーションが上がる

 人的資源管理において、さらに大きな問題はモチベーションの面にある。

 人間には他人から認めてもらいたいという承認欲求がある。匿名ではいくら努力し、貢献しても一部の人にしか評価されない。職場や会社の外で認められる可能性は小さく、ときには上司によって合法的に手柄を横取りされてしまうこともある。

 要するに匿名だと努力のしがいがないわけであり、力の出し惜しみや手抜きも起きやすい。

 逆に自分の名を出して仕事をさせると、成果をあげれば組織の内外から認められるので、自分の名誉にかけてもよい仕事をしようとする。

 京都のある機械メーカーでは、機械1台の組み立てを丸ごと1人に任せ、製品には個人のネームプレートを貼って出荷させている。そうすることで、よい製品をつくれば納入先から直接本人に感謝の声やよい評価が返ってくるようになった。その結果、社員のモチベーションが目に見えて上がり、若手社員の離職も皆無になったという。

 また酒造会社のなかには杜氏の名前と顔写真入りのラベルを酒瓶に貼っているところがあるし、高級車用のエンジンに製作者の名前を刻むようにしているメーカーもある。いずれのケースでも、名前を出すようにしてから社員の意欲が明らかに向上したという声が聞かれた。

あらゆる知的生産物に名前を入れよう

 とくに匿名文化を変える必要が大きいのは、ホワイトカラーの職場だろう。価値の源泉がハードウエアからソフトウエアに移り、知識社会を迎えた今日、知的生産物の価値は以前に比べ格段に高まっている。アイデア一つが会社に莫大な利益をもたらすことがあるし、文章表現一つでビジネスの成否が左右される場合もある。にもかかわらず、日本企業はこれまで社員の知的貢献を十分に評価してこなかった。その表れが匿名文化、匿名主義である。

 自分の名前が出なければ、適当にやっておこうという気持ちになるのが普通だ。少なくとも、ありったけの知恵を絞ってアイデアを出そうとか、自分の名誉にかけてよい仕事をしようというような高いモチベーションは期待できない。

 あらゆる知的生産物について、原則として個人の名前を明らかにすること。それを私は「シグネチャーポリシー」と呼んでいる。たとえば部下のアイデアは発案者の名を明示するよう上司に義務づけるとか、会議の発言は記録をとっておく、企画案など社内文書には原則として部署名とともに個人の署名を入れる、などとルール化してはどうか。

 また社員一人ひとりの仕事内容や業績などは社内のウェブに載せるようにする。プロジェクトチームの場合は、映画のエンドクレジットのようにメンバー個々人の名前と役割を記載すればよい。

「仕事は組織でするもの」という建前にこだわり、匿名主義にこだわっている限り(よくない意味での)サラリーマン意識を払拭することはできない。プロとしての責任感と意欲を持たせるには、まず自分の名前を出して仕事をさせることから始めるべきである。

筆者:太田 肇