広大なステップ地帯のただ中にある大きなくぼみ。この地点から、大天空に向かって大きなキノコ雲が広がった。

 1949年8月29日、旧ソ連における初めての核実験が行われた中央アジア、カザフスタン、セミパラチンスク。ここで、1991年までに約500回の核実験が行われた。

 そして忘れてはいけないのが、この核実験によって広範囲に汚染が広がり、人々が被爆した事実だ。今でもその傷は癒えていない。

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核廃絶をもっと声高に

 8月は、広島・長崎の原爆忌に、私たち日本人は核兵器の悲惨さを認識し、決して使ってはならないと胸に刻む。

 しかし、昨今、核軍縮への道は、保有国と非保有国との間に溝ができ、中国・ロシアとの関係、米韓の合同演習を巡って、緊迫感が強まっている。

 北朝鮮は相次いで核実験を繰り返し、ドナルド・トランプ米大統領の過激な発言を呼び込んでいる。

 核兵器により、国の威信を誇示する国際政治に対し、「愚かしいこと」と提言していくことが、被爆国日本の役目ではないだろうか。しかし、国連の非核宣言に米国の核の傘下にあることを忖度し、交渉会議にも参加しなかった。

 そして、北朝鮮の核実験の報を聞くにつけ、一般市民の生活が核兵器開発のために困窮を極めているのではないかと想像する。

 国営テレビの成功を伝える切り口上のアナウンスに、ミサイル発射を遠くから見ている金正恩国家主席の笑顔は、揺るがぬ権力を手中に収めた独裁者ー妖怪のような違和感がある。

 核の開発と使用は絶対に許さない――。

 唯一の被爆国日本はもっと声を上げていいはずだ。チェルノブイリで被曝した人たちの支援に何度も現地入りし、また旧ソ連の核実験の地を訪れて住民の苦しみをこの目で見てきた私は心からそう思う。

 旧ソ連が行っていた核実験の爆心地(グランド・ゼロ)に立ったのは、今からちょうど10年前の8月だった。

 米国とソ連の冷戦構造の中で核実験は何度も繰り返されてきた。旧ソ連では、関わった物理学者や建築家たちは、エリートぞろいだった。実験が成功すると報奨金が出たという。

 セミパラチンスクは、360度の視界が広がる大平原だ。くぼみから等間隔でコンクリートの低い塔が並んで立っている。近い所ほど、無残に崩れ、朽ちている。枯れた草の中に薄紫の野菊に似た可憐な花が咲いていた。

放射線量は日本の1000倍

 日本から持参した測定器は測定不能に陥った。途中、健診センターから借りたガイガーカウンターのスイッチを入れた。40マイクロシーベルト。

第1回核実験場


 2011年に起きた福島第一原子力発電所の原発事故以前の日本の通常環境放射線量の800〜1000倍という数値だ。

 大地は汚染されたまま放置され、半永久的にこの地から放射性物質が消えることはない。

 秘密都市クルチャトフからの帰路、チャガ村で、トラックから建材を降ろす作業をしていたゲナジー・ピケロフさんと出会った。

 「1949年、私は10歳だった。8月の最初の爆発を覚えているよ。村に軍隊がやって来た。1時間くらい軍の飛行機が何機も飛んでいた。大きな爆発が起こった。外に出ると大きなキノコ雲が上がった」

ゲナジー・ピケロフさん


 「軍から『見てはいけない』と言われたけれど、子供はそんなことを言われても聞かないよ。面白がって見たものさ」

 「『目が痛くなる。見るな』と言われたって、爆発のたびに見たさ。家が揺れた。大きなキノコ雲が上がった。私たちは、爆発が核だと知らなかったんだ。ポリゴンの近くに住む人には、お金が渡されていたらしい」

 チェルノブイリ原発事故による放射能汚染地への支援活動を続ける中で、世界共通言語となった「ヒバクシャ」を介して、広島・長崎を経験した日本に対し、世界各国の人々が寄せる共感をひしひしと感じている。

 国連の非核宣言にも被爆者の苦しみが表記された。日本が国際社会の中で果たすべき役割ははっきり見えているのではないか。

 「セミパラチンスクを閉鎖したのは、私たちです」

 イリーエバ・ウルクスさんの言葉に、私は、思わずうなずいていた。

旧ソ連の核実験場、セミパラチンスク

 「1989年2月でした。私はアルマトイ教育大学で教えていました。それまでは、セミパラチンスクで核実験が行われていると聞いても『強い国―ソ連』のためと信じていました」

 「ある時、詩人で国会議員のオルジャス氏の演説を聞きました。大学近くの広場にはたくさんの人が集まっていました。彼の演説は熱気があり、私たちに感動をもたらしました」

 「国と軍が行ってきた核実験は、太古よりこの地で暮らす人々の命を危険にさらしている。断固セミパラチンスクの核実験に反対する、と言うのです。私は大きなショックを受け、大学を飛び出して、運動に参加しました」

 「故郷に帰ると、水道もありません。人々は村に点在する井戸から水を汲み、電気もあまり使わない生活をしています。でも、そんなふうに太陽と自然の恵みをいっぱい受けて暮らす方が、人間にとっては幸福なんです」

 「反核運動は、『ネバダ・セミパラチンスク運動』として、広く展開していきました。この運動を通して、私は、セミパラチンスクの核実験がカザフの国だけでなく、隣の中国にも、ひどい被害をもたらしたことを知りました」

 「中国ロブノール地方でも奇形児が生まれたり、癌患者が多数生まれたりしました。私は、中国の人たちとも連帯していきました。日本にも4回行きました。1949年8月29日は、大きな意味があります」

 「日本でも1945年8月はそうですね。私は、世界の反核運動と地域の貧困の克服、自然エネルギーの活用に取り組んでいます」

 「見て行ってください。あふれんばかりの太陽エネルギーがあります。1年のうち7か月間はここに水を通して太陽光で温め、近くの子供の家に給湯しています。親の愛に恵まれない子供たちばかりですから、とても喜ばれます」

 「アンズやリンゴを太陽光で乾燥させ、アップル・ティを作って、売っています。ほら、ポットに入っていますから、飲んでください」

 「活動は生活に結びついています。世界中の反核運動、エコロジストたちと連帯しています。あなた方も、ぜひ、また来てくださいね。いつでも、待っていますよ」

核ではなく太陽の恵みで生活

 家庭菜園に組み立てられた温室の屋根で、乾燥し作られたアップル・ティ―は自然のふくよかな甘み、太陽からの贈り物だった。

イリーエバ・ウルクスさん


 命とは相いれない核に反対し続けてきたイリーエバさんは、ごく自然に太陽の恵みを生かし生活をし、地域に還元している。

 懐の深い、暖かいお母さん。イリーエバさんは、アルマトイ市の郊外でネグレクトされた子供たちのために「子供の家」を運営している。

 自然農法で育てた野菜やフルーツ・ティの販売収益で、子供たちを地域住民と共に育てているのだ。女性ならではの反核運動と生活の実践だった。

 セミパラチンスクは、1991年8月29日を最後に実験は終わった。今後、秘密都市クルチャトフは、核研究施設として、利用されるという。

 世界中から、核実験の報道が伝えられるたびに、「核は命と相いれないもの」というシンプルな命題が思い起こされる。

 核の恐怖は伝え続けなくてはならない。次世代までも、半永久的に続く恐怖を。地元から立ちあがる市民の力が試される。

筆者:神谷 さだ子